『完滅が道、悟りではない!』
心が無くしてこの世界、この命が存在しえようか!
しないのである。
ゆえに
その心の完滅が道では無いのである。
全ての相対において、一方が無ければその一方もまた無いのである。
その一方の完滅を言うならば、その全てが無いのであるから、その存在そのものの全てが無くなる事である。
ゆえにその完滅が悟りでは無くして、それをそれと正しく知り、正しく用いて生きれる者をこそ、真の悟りた者と言うなり。
煩悩即菩提であり、迷即覚であり、その世界から逃げるのでもなく、そこにあってそれをそれと知り正しくゆけるからこそ、真の悟りと言うなり。
それがそれとして無くなるのではない。
それをそれと知り、それを正しく用いる事であり、そこにおいてよく制する事ができる事が大切なり。
その完滅が真の悟りではない。
一切の生滅が悟りではないからである。
そのある心を心として正しく見つめきって、それをそれと知り、正しく覚め生きる事こそが真の悟りの心にして肝心なると知る事なり。
それが無くなったのではなく、それをそれと覚めているから、それを制する事、おさえる事ができるのであり、正しく用いる事ができるのである。
ゆえに
それをそれと知る事こそが悟り、覚めの上での大切なる事と示すなり。
完滅、虚無となる事が悟りでは無く、道では無い。
それをそれと知り、そこにおいてよく覚め、よく生きれるから悟りである。
よく覚め、
よく生き、
よく生まれるからこそ悟りと言い、道と言うなり。
されば、
そこから逃げるのではなく、そこにあって覚める事こそが大切なり。
泥田に
あって稲は育ち、泥池に
あって蓮華は美しく咲くのであるから。
闇とひとつに月は光輝くのであるから。
夜を転じて朝となし、眠りを転じて覚めとなし、冬を転じて春となすように、泥を毒とせずして正しく転じて栄養とし、命を育て、命を咲かし、命を生めと言うなり。
煩悩即菩提、
迷即覚、
転迷開悟の心こそ大切なり。
除闇遍明となしたら、その光をもって全てを照らし、全てを輝かし、
全てを幸せに包み生きなさいと言うのである。
太陽の法嗣
大日天光子
合掌