『殺されし者の魂に対しての供養!1』
死者の追善供養をなすに恨みに恨みをもって報いて、果たして追善供養になるであろうか。
憎しみに憎しみをもって何になるであろうか。
よく考える事である。
善と供養なさずしては、その死者を苦しめるだけにして、真の供養にならずと知るべきである。
罪に対して罪をもって報いて、それが追善供養、その廻向になるであろうか!
罪に罪をもって報いるならば、逆に死者を悲しませ、苦しめるだけであろう。
汝等のその供報いて、果たしてそれが追善供養になるであろうか。
例えば、
傷つけられるに傷つけるをもって報い、殺すに殺すをもって報いて、その追善供養は、罪という供養を送っているだけなのであるから。
その肉体だけが全てと思い、その肉体の死が命の全ての死と思い違いしているから、このような道理が見えぬと知る事なり。
罪に対して罪、
復讐をもって報いるよりも、その許しと救いをもって報いるほうが、死んだ者には大きな功徳、供養になるのである。
恨みとなして、
恨みを果たして、その黒い想念を送っても魂の世界では悲しみであり、ただ苦しみだけである。
よいかな、
その肉体が全てではない!
その肉体は修行の為の乗り舟と知りなさい!
魂はそれを離れれば、逆に自由なる世界とかえるなり。
その束縛を離れた魂を逆に縛りつけるような心を供養するならば、ただ悲しませ苦しめるだけと知る事です。
恨みの心、
怒りの心、
悲しみの心、
苦しみの心をもって死した者に供養してはならない。
その肉体という束縛を離れた命にとっては、正しく明るい心こそが真の供養となるのであるから。
追ってよく善をなし、多くの他に喜びや幸せを与えてこそ、真実の供養となるのであると知るべきなり。
その肉体は束縛の家なり!
受肉なすにその束縛と苦これを得るなり。
死して真実なる命とかえればもとの自由の道にかえるなり。
その魂を逆に、
この世の者の迷道において迷わせてはならぬと教えるなり。
許しと愛をもってその者を救い、その罪と覚めせしめて改心させえるならば、その罪人によりて死せし者の魂は多くの功徳を得て、大きな喜びの中に包まれるなり。
死せし者はその罪人を許して改心させる相をこそ、その世界より見つめて涙を流して喜ぶなり!
その供養によりて、その死せし者は大いなる光に包まれて、安心の地へと旅立つなり。
太陽の法嗣
大日天光子
合掌