『メシア・救世主と名乗る者!』
末法とはゆえ救世主にあらざる者が、私が全てを超えたメシアなどと申して人々をたぶらかすなら、その者は詐欺師に近い者であろう!
それで金品を集め受け取り、私物化して贅沢三昧をしている者が、真の仏陀、救世主と言えるであろうか?
その者は自分がなにをしているのか解らなくなっているのです。
人々はよく真実と当たり前の道理を見て気づかなくてはならない。
自ら真実悟りを実と開き至りた者が、他の者の霊言などと必要があるでしょうか!
道を見ず知らずして道を語り、実なる体験をし、そこに年月をかけて修行し、自ら大いなる悟りと至ったのであろうか!
釈迦仏は自ら長き苦行をした後、そこには真の悟りの道は無いと判断してその身を清め、スジャータの布施した粥を食し、菩提樹の下に座し、真理の道の悟りを開くまでその座から立たぬと決心して座し、深く瞑想禅定に入ったのです。
その禅定三昧の中で真理の道の世界を開き、そこに修して神秘真実の体験をし、その修の中で、真実の開眼をしたのです。
その真の開眼の歓喜の涙を流した時、晴れた空なのに天はその涙と共に天から祝福の涙を雨として降らしてくれたのです。
その身に妙なる香を注ぎくれて、頭頂には油を注ぎ、誕生の証としめしくれたのです。
それで悟り世界の終わりではありません!
そこからが真の修行の体験が始まったのです!
色々の誘惑や魔王と魔軍の世界や、神秘世界の体験の数々がおこったのです。
その体験の中で智慧を磨き鍛えたのです。
その神秘世界は釈迦の人間界の生命の一生に離れずついて共にあったのです!
ゆえに生涯が修行とも言えるのです。
やがて一義諦の大いなる悟りと至りその命と大完成したのです。
ゆえに釈迦は自ら教えを説き、他の者の霊言などとは言わないのです。
真実悟りを開き道を得て完成極めた仏陀が自らで説くのは当然です!
こんな当たり前もわからぬ仏陀はいないし、ましてやメシアなどと言うのは大妄語であり、大嘘だと知りなさい。
頭頂に油を注がれるのも事実現実に神秘真実世界でおこる真実の体験なのです!
この実体験の真実は自ら実際に道を開き実と体験した者しか真は理解出来ないでしょう。
しかし、これが事実真実なのです。
私がなぜこうして言いきれるのか、それは私自身が全てこの命で実体験したからです。
その道、
悟り世界、
真理世界、
その道の中、
神秘世界で智慧を磨き鍛えて得たから人間界を超えた智慧や道の教えや道理を説いているのです。
全くの無知無学の大迷大愚である私が何千、何万の教えを説き示しているのがその事実の証なのです。
全ての人はみな真理を求めて一道を貫きそこと至れば皆大きな進化をとげられるのです。
新しい脳を開き持つ賢人達の誕生が実となるのです。
私は太陽の法嗣としてゆえに太陽の法を全てと説いて証明しているのです。
これが、日の国の日の法であり、偉大なるメシ一の法が日の法によって保持されるであろうと言う、ノストラダムスの最終予言の真実なのです!
太陽の法を示す予言はインドにもあります!
日本の神道天照大神の神体を示す鏡も太陽の法、日の国の日の法なのです。
人々よ、真実の教えに依りなさい!
愚かな宗教遊びから目覚めなさい。
やたらと仏陀だの、メシアだのと名乗るのはやめなさい!
末にその報いは大きく自らにかえってくるのですから。
太陽の法嗣
大日天光子
合掌