『誤った聖典に依るゆえに!』
聖典と言えども、
それに依る事によりて迷いと争いを続けるならば、その迷いと争いは尽きる事はない。
その聖典に依ってそれを生じている以上、その聖典を正さない限り、それは滅する事はないからである。
されば、
それが自宗独善を示して他の全てを認めないと言い、その対立を説くならば、その対立は千年たとうが、二千年たとうが尽きる事はない。
その聖典の
誤りに気づかず、
ただ盲目的に信じ、それに依り続ける以上、何年、何百年、何千年たとうとも同じだからである。
されば
宗教の独善を説き、対立を説き、
報復を説き認めるような聖典があるならば人類を永遠と迷い苦しめるものと気ずいて、それを捨てるか、その誤ちを正し生きなさい。
同じ聖典に依り続ける以上、その迷いと争いと対立は尽きず!
その苦しみもまた尽きる事がないのである。
同じ宗教において、うつの時代も対立し、争い迷苦しているのは、この輪廻のゆえと示すのである。
神の名においての戦い、争いを説いて、人と人とが殺し合うのが正しいなどと認める聖典ならば、
それは誤ったものであり、人を迷苦させ続けるものである。
神と聖典の名において報復を正当化し、対立と争いをくりかえさせるならば、
それは誤ったものであり、人を迷苦させ続けるものである。
差別を認め、
対立を認め、
自宗以外は全て滅ぼせなどと教えるものならば真理と大きく外れた誤ったものである。
人よ!
人と人の
殺しあい、
報復、
争いを正当化して、自己中心の宗教ならば、その教えは全て邪であり、誤ったものである。
そのようなものに盲目的にただ依っているならば、その迷い苦しみはその世界に尽きる事はないのである。
千年たとうが、
万年たとうが、
その迷いと苦しみは、その教えのゆえに巡り続けるからである。
宗教界の中にこのような因縁に依りて何千年も争いを繰り返し、迷苦している世界のあるを知る事である。
その者達はただ盲目的に信じ、更にそれをねじまげて迷って
いる事に気づく事が無い事に早く気づけと教えるのである。
正しい宗教と正しい教育こそ、全ての人類にとって最も大切な事である。
教育も無く、
間違ったままの古き宗教の聖典を盲信し、ただそれだけを千年も二千年も守り、教え続けているならば、同じ迷いと苦しみを脱ける事はできないのである。
ゆえに正しい宗教と、道理道徳に添った正しい教育こそ全ての人類には最も必要なると教えゆくのである。
愚かなる教理に依りゆきて自己独善の争いを繰り返し、
千年も二千年も同じ苦しみを生んで暮らしている!
そのような者達こそ真、悲れむべき人達である。
なぜ同じ争いを繰り返し、破壊と絶望を繰りかえすのか!
そのめぐりめぐりてそこから脱けられない原因がどこにあるか!
早く覚める事である。
誤った古き聖典、
教典に依ってそうなるならば、それを捨てるか、正さなくしては、その民は永遠にその迷いと苦しみの中と知る事である。
ゆえに
ただ盲信せずに、
そこに真実と道理と道徳と、正しい道があるかを人々は智慧をもって正しく見つめよと言うのである。
たとえ神の聖典と言われようが、誤つならばそれを切りて正せと教えるのである。
神、仏の聖典でも、人が説き示す以上、そこに誤ちを生じるものである。
人々を迷苦流転させるような誤ちを見たならばそれを厳然と破折して、正しゆく事である。
誤ちに盲信するだけならば、その人々は永遠に同じ迷苦の中を流転するだけである。
ゆえに正しい教えこそ智慧と見じて、
見つめ正せと教えるなり。
人と人とが傷つけ合い殺し合う事を許し、それを聖典などと言う神は一人として存在しないのである。
恨み合い、
憎しみあい、
報復しあう事を正しい事などと教えるような愚かなる神も一人も存在しないのである。
恨みに恨みをもって報いれば、恨みの尽きる事は無いのである。
殺すに殺すをもって報いればその殺しあいは尽きる事は無いのである。
互いに報復しあいて暮らせば、千年たとうが、万年たとうが、その迷いと苦しみの輪廻は尽きる事はないのである。
誤った聖典には盲信せず真実道理こそを大切に生きる事である。
太陽の法嗣
大日天光子
合掌
オ一ン・アビラウンケン