『道徳は自然が根本!』
自然とは本来のあるべき相にして、自ら然らしむる相を言うのであり、あるべきものがあるべき相であるべきところにある!
これが自然なのである。
人が本来あるべき命と生きる、これが自然と言うのであります。
米櫃には米であり、水桶には水であり、花瓶には花であり、花は花であり
木々は木々である!
それぞれが
あるべきにして
あるようにして正しくある、
この自然の相こそ、それぞれの道と言うのである。
この道を
正しくゆく事
これを道徳と言うのである。
全てがその命に持っている本来の道をゆくに真っ直ぐな心でゆく!
その道を真っ直ぐな心で行う!
これが徳としての道と言うのである。
この徳としての道を忘れて道徳を論じる事は誤ちであり
自然すなわち
本来のあるべき相、道に反している事を見ずして道徳を論じ合う事はおかしな事と知る事である。
ゆえに道徳を見るにまず自然すなわち、本来のあるべき相、自ら然らしむるところこそをよく見よと示すのです。
その道を見て
その道をこそ真っ直ぐとゆくのが、道徳の根本なのであるから。
徳とは
ゆえに真理と言い、真実道理に添って真っ直ぐな心でゆく事、行う事と示すのである。
すなわち真実道理に添った智慧をもって真っ直ぐとゆく心、行う心こそが徳の根本にしてあるべき相と知る事です。
道徳は
徳の道と知りて
本来の自然、真実道理これを忘れてはならず!
真実道理、
本来の自然に添いてて徳の道を真っ直ぐとゆく事こそが道徳であると忘れてはならぬと言うのである。
これを忘れて諸々の道徳論を論じるのはゆえに、根本を見失った相とこれを知る事である。
自然は、
自然のままに
神の摂理である。
因縁と因果も
またそのまま神の摂理であり真理である。
たとえば
男と女がどんな形であろうと性を交わせば子供が生まれるという事を前提として行うのが自然の相なのである。
自然であり、
それはそのまま
因縁であり、
ゆえにそこには自然と責任というものが生じ道徳というものが生じてくるのである。
不倫や
乱交において望まないのに生まれてくる子供がいるのは神の摂理に反するなどという者がいるが、
それは大きな誤りである。
それは
その行為そのものが道に反するのであり、その結果として子供の生じるのは因縁であり、
自然であり、
神の道に添う事なのである。
結果において
そこに苦しみが生じるのであるならば、その原因こそを正すために、それは生まれるという事に責任を持つ事が道であり道徳なのであるから望まないのにと言うのは人間の方の勝手な論理であり、道ではないのである。
すなわち
そこにおいても、
自然、
因縁因果という摂理真理を正しく知り、あるべき本来のすがたこそ知りて覚める事こそが、道とこれを教えるのである。
子供の生まれるのも自然にして因縁であり子供の生まれないのも、自然にして因縁である!
その自然に反して、その因縁に反して人工的に子供を製造するなどという事は道とは言えないのであり道徳に添うとは絶対に言えないのである。
この人生だけが命の道と思いていたら大きな誤ちなると知る事なり!
人は魂の旅人であり、その命を生きている命の道こそに早く気づいて因縁と道こそを知りなさい。
この道に
覚めたならば、
子供を人工的に殺したり生んだりする事がいかに道に反するか、自づから命に知ると言うのである。
「その因縁より生じた責任を負うのが神の摂理であり、道である。そこと覚めて正しく命のゆくべき道とかえるのがまた、神の摂理であり、道である。
道は自ずから道と正して、道と帰すと知る事なり!
その苦しみより脱けるにはゆえに、道と正して生きる事と示すのであり、その道と正すに神の救いも一とは来ると言うのである。」
太陽の法嗣
大日天光子
合掌