般若心経と空! | 太陽王法の会

『般若心経と空!』  

天高く澄みわたる青空、光輝く青空!
その青空はどんな雲があらわれてその青空を覆いかくそうとも、青空は滅するわけでもなく、雲のむこうにいつも存在している!
青空は滅する訳でもなく、生じるわけでもなくいつも存在している!
また青空は真っ黒な雲が一面に覆ったからと言って、汚れる訳でもなく、逆に真っ白な雲が一面に覆ったからと言って浄らかになる訳ではない。
元々が清く美しく清浄なのである。
更に青空は、雨空となろうが、曇り空となろうが、その青空が増える訳でもなく、減る訳でもない!青空は天高く昇りゆきたとしても、手でつかめるものでもなく、大きさや重たさをはかれる訳ではない。
すなわち、有って無いのであって、無くて有るのである。
有であり、無であり、有なのである。
すなわち空であり、空相なのである。
人間の心もこの青空の如くに、もともとが清浄なのである。それは人自身が知っているのである。
善と悪、浄と不浄、好き嫌い、正と邪、人は心で知っているのである。
青空が陽の気であり清く美しいように、人の心ももともとの自然にかえり、本来のあるべき心、自然体で生きるのが自然であり、因果必然のの世界に生きる幸せなのである。
人間の身体に写して見よう!
眼は物を見たからと言って、生じる訳でも滅する訳でもなく、もともと正しく有るのである。
その眼は不生不滅、不垢不浄、不増不減である。
耳は良い音を聞いたからと言って浄められる訳ではなく、逆に悪い音を聞いたからと言って汚される訳ではない!
不生不滅、不垢不浄、不増不減、もともとなのである。
鼻も良い香りを嗅いでも、悪い香りを嗅いでも変わるわけではなく、もともとなのである。
舌も良い味を味わっても、悪い味を味わっても、不生不滅、不垢不浄、不増不減なのである。
人の身も心ももともとなのである。
人はもともと清浄なのである。
赤ちゃんは誰でも可愛いいであろう!
汚れなききれいな心を持っているのである。
その赤子の笑顔を思い出す事である。
人の眼はまた、本来美しいものを正しく見るのが好きなのであるから、曲がって見る事なく正しく見る事が大切なのである。
「正見」、耳は悪口や罵りを聞くのは本来嫌いなのであるから、やはり曲がって聞く事なく、片寄りて聞く事なく正しく聞く事である。
鼻も良い香りを正しく楽しむ事であり、良い悪いを正しく知りゆく事である。
舌も貪ぼる事なくして正しく味わう事であり、言葉は正しく使う事である。
全ては心であり、正中心中道をもって生きて、六根「眼、耳、鼻、舌、身、意」清浄と生きる事こそが身心の健康であり、幸せなのである。すなわち自然体の善、本来のあるべき命これを生きる事である。
この世界、原象界のものは自然から生じて自然に帰るのである。
空から生まれて、空へと帰るのである。そして物が生まれるという事は、全て因縁「直接原因、間接原因」なくして生じるものではなく、全くの虚無からは決して生まれ得ないのである。
そしてまた、なにもない虚無から物が生まれ得ないように、生まれたる物が決して虚無にはならないのである。
全ては因縁によって生じ、因縁によって滅するのである。
色は物質及び肉体であり色は因縁によって生じ、因縁によって滅するのである。全ては因縁によって生滅変化して存続するのである。
受は感覚、知覚であり、これもまた因縁によって生じ、因縁によって滅するのである。
想は概念構成であり思いであり、行は意志、記憶、行為であり、識は意識である。
色受想行識、すなわち五蘊はみな因縁によって生じ、因縁によって滅し、また存続するのである。
五蘊は有であり、無であり、有なのである。
因縁によって生じた時が有であり、滅した時が無であり、一切が空なのである。此の世の存在は全て生滅変化するものであり、これを諸行無常と言い、そこに絶対不変の本体というものを認めず、存在するものは絶えず生滅変化するものであり、変化しつつ存続するものである。
したがって変化を受けない存在とか、逆に虚無のものから存在が生じたり、存在するものが全くの虚無になったりするような事は絶対ありえない!
これを諸法無我と言うのである。
全てが因縁によって生じる事は、この世界がその因縁の中の因果の道という宇宙律から成り立つと言う事である。
苦しみも、悲しみも、喜びも、楽しみも、全て因「直接原因」があり、縁「間接原因」によって生じるのである。
そしてそれが変化して更なる苦しみにつながったり、滅したりするのである。
苦とは、原因、理由としての集が流転する流転縁起にあたり、滅は、苦を滅する手段としての理想、苦を滅する方法としての道があり、これが還滅縁起にあたり、そこに正しい教えと道があるのである。
仏教で言うところの道諦としての八正道「正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定」がこれである。
道と真理と悟りの教え、それを知って生き、八正道を生きる事であり、すなわち善を生きる事である。
人間は人間としての道にそって正しく生きる事である。
自分だけの事しか考えない人生は小さき人生であり、器の小さい人の相であり、人の道に反する生き方である。
他の為に生きる事は無限なのである。
自分一人食するのはたかがしれているが、他を食べさせるとしたら無限であり無尽である。
自分一人が着るものは時々に一着であるが、他に着せるとすれば無限であり無量である!
ゆえに他の為に生きる人生は、大きな人生であり、その人は器の大きな人と言えるのであり、道にそって生きる人とも言うのである。
この宇宙の真理は生かし生かされる相にあるのであり、道もそこにあるのである。
人が健康で幸せに、させて楽しく生きるには、人と人の世の中を正しく生きる事なのである!
人と人の世の為に生きるからこそ、信用も徳も真の名誉も生まれ、幸せになれるのである。
すなわち幸せにする事が幸せになる事であり、愛する事が愛される事であり、思いやる事が思いやられる事であり、大切にする事が大切にされる事であり、守る事が守られる事であり、平和にする事が平和を得る事なのである。
円の心の法である。自分だけが幸せならば他はどうなってもよいという考えは、因果の道「法」と因縁の世界でその報いをうけて不幸となりゆくのである。
因と縁を大切にしてよく知り道の心を学び、道の中に生きる!
そこにこそ心身全ての幸せがあるのである。
道とは、余分な知識、雑念、妄念、欲念等をすてゆくところにあるのであり、あるがままの善、本来のあるべき命とかえること、法爾自然の命、赤子のような心とかえる事である。そしてまた道は、慈悲の心と愛の心、仁の心を持ち、志高く、人と人の世の為に求めゆくところにあるのである。
天空のように清く明るく、正しく人と人の世の為に生きる!志高い意志の力の中にあるのである。

因縁と因果の法!
「善因善果、悪因悪果」を心して知り、道にそって天地大自然と大調和して善に生きる!
人間が人間らしく人間の道を生きる!
そしてまた志高く、人間として天道と入り生きる!
これが人間の道なのである。
死とは生への一過程であり、往生とは生まれ往く事を言うのであり、天界浄土と生まれゆくか、餓鬼、畜生、地獄へと生まれゆくか!
皆、その者の心である。
これも因縁であり、自らの生みゆく因縁である。
神と仏は人間を心から覚めせしめる為に人にこの道を教え続けてくれているのである!
神と縁をつける事も仏と縁をつける事も、その真実なる世界、命へと生まれゆくためであり、自らを昇華せしめて誕生しゆくためであり、空なる実相世界、天へと生まれるためである。
今世と来世の幸せの為に、人としての務めである道を生きて、この世を幸せで平和な世界にする事である。
その心を自然、本来のあるべき心、善にかえしゆきて教えにそって正法を修する事である。
その法によって、この空なる世界に実在する真実の存在をしる事である。
神を信じる事無くして神の世界を知る事も、縁をいただける事も無いのである。仏の道を学ぼうが、仏の存在を信ぜずしては、仏と出会う事も無いのである!
その法を信じ、その教えを信じ、その道にそって法をこそ修する事である。
般若波羅蜜多心経は、その道と至る法の教えの一つである!そしてその空と住する存在、実世界と出会い導かれ、救われる法とは是れ大神呪なのであり、大明呪であり、無上呪であり、等々呪であり、一切の苦を除く、抜苦与楽の最高の神呪なのである。
その神呪は宇宙世界の真理、生命世界の真理、命のくら庫を開く、般若波羅蜜多呪なのである。
それゆえに今すぐに唱えよ、一時をおしんで早く唱えよ!
「偈諦偈諦波羅偈諦、波羅僧偈諦菩提薩娑呵」唱え唱えて唱うべし!
心一つになして唱うべし、百万遍も唱うべし!
そしてその心は自然体の善に持ち、大慈悲の心を持ちて、また一切を空と知る心を持ちて、真理を求める高き志を持ちて、意志力と不動心を大切にして、空の真実を悟る事であり空の真実世界と出会う事である。
これこそ般若心経の大切なる教えであり
、般若心経とその神呪正法を決しておろそかにしてはならない。
般若心経を学び修する者は、心と学び、心と修し、よく空を知り執らわれず正しく生きなくてはならない。
六波羅蜜多
「布施、持戒、忍辱、精進、禅、智慧」十波羅蜜多
「壇、戒、忍辱、精進、禅、慧、方便、願、力、智」をまた心して知るべし!
これ神仏の教えなのである。
無とはまた、なにもない虚無ではなく、存在する無なのであり全てを含有する無をまたゆうのであり、自然体となる真理の実相である。
全ては因縁によって生起し、生じたからと言って不変のものはなく、諸行は常に無くして無常であり、その実相は全て空である。
色即是空、空即是色、全ては因縁によって生じ滅し存続しているのである。
一切は空、その躍動する空の命を教えるのがこの経である。観自在の智慧を得て菩薩と生まれて、人と人の世の為に生きる事である。


太陽の法嗣

大日天光子

合掌