太陽の世界の太陽の王法! | 太陽王法の会

『太陽の世界の太陽の王法!』  


この世界は太陽の世界であり、太陽の法に非ざるものは何も無きなり。

太陽の法を道とし、太陽の法を命として生きる!

これが即ち最上の道なり。

太陽の相を見よ!

果報や見返りを求めて全てに光を与えているのではない!

全てに光を与える事をただ喜びとして、当たり前に光輝いているなり!

当たり前に光輝かして道となしているなり!

是れが即ち最上の道なり。

全ての自然を見よ!

全ての自然も、
またその当たり前の道をよくなして光輝くなり!

この世界は太陽の世界であり、太陽一如の世界なり!

太陽の法に非ざる法はなにも無きなり!

太陽の法を道とし、太陽の法を命として生きる。

即ちこれを最上の道と言うなり。

いかなる神、
いかなる仏と言えども、もしこれを否定するなら、その者をして神とも仏とも言わず、この天地で最も暗き者と言うなり!

「オン・アビラウンケン」

この世界は偉大なり!

「摩訶毘廬遮那」

太陽大日如来は偉大なり。

「我、太陽の法をもって天下に流布せん!
太陽の正法、ただこれをもって天下これを平定せん!
一切は太陽の世界にして太陽の法なり!
我はゆえに、明らかな釈これをもって万教これを説き、これを証さん!
天下一切の衆生ゆえにただこれをこそ聞け!
これをこそ求めよ!そして得よ!
これに優りた正法は、この天下に存在せぬがゆえなり。」

「我は個としての神、個としての仏を大切にするのではない。
太陽と太陽世界の正法、太陽の法をこそ、大日教
( 摩訶毘廬遮那一切教)をこそ、大切にするのである。
もし太陽の世界において、太陽と太陽の王法を否定するならば、いかなる神と言えども仏と言えども、これを讃える必要は非ずして、これを貴ぶ必要も、また非らず!
そはそのような者をして、神とも、大覚の仏陀とも言えず!呼ぶにふさわしからざるがゆえなり!
そのような大愚無智者なれば、真の神、真の仏とは言えぬがゆえなり。」

「太陽と太陽の法を否定するような暗き者を私は真の仏とも、神とも認めないのであるから!
当然の如く、この法の否定者をして、仏教者とも、神教者とも認めないのである。
菩薩、天人、天使、聖霊、明王、金剛、各々大尊においてもまたしかりである。」

「私は、あらゆる神々、その個々において絶対なのではない!
個としての神、個としての仏、個々の聖人道者に対しても絶対なのではない!
私はただ太陽の法と太陽に対して絶対なのである。
太陽と太陽の法を否定し、誹謗し、害う者ならば何人と言えども、私は真実と道をなしたる神とも、仏とも正法者とも、道者達者とも、大覚成道者とも真の悟りを得た者とも、認めないのであるから!ゆえに全てはただ太陽と太陽の法、その正法にこそ依りて生きよと言うのである。」  

太陽と
太陽の法を害し、
そこない、
否定するような、
神も仏も存在しないと言う事は、
私の絶対的確信である。

ゆえに私はそれを大音声をもって天上天下に言えるのである。

即ち
この太陽神( 仏)、
大日如来と太陽の法を否定し、害いゆく者に神も仏も無く、真の神教者、
真の仏教者もなく、道と実と入り覚め悟る者もなく、
それらは全て、
道途上にして、
悟りと実と至らぬ者と言うのである。

日月一如の
明諦の無くして、
神の覚め、
仏の悟りも存在しないのであるから、
その明なくして、
その智もまたないのであるから。

明も智も照も、
太陽の教えである。

日月一如の明は
大円鏡智、
合わせ鏡の理、
一切仏菩薩の示す太陽の真理である。

智は日と知り覚める事であり、
光明の如く知る事である。

照は日と召して、
その命を一つにして輝かしめ自他共に照らす事である。

アッラ一の
神の名も、
エホバの神、
ヤハウェ神の印も、ビシュヌ神、
シヴァ神、
ブラフマ一神の三神の原理も、
天照の神体神鏡も、みな太陽の法である。

キリスト教の
十字架も、
ア一メンの大意も、寺々に掲げる卍の印も悉く太陽の法である。

ただ道と知らず、
至らず、
悟らぬ者達にはわからないだけの事である。

皆、
太陽に祈りなさい!

その正法の祈りを、オ一ン・アビラウンケン
オ一ン・アビラウンケンと祈りなさい。

太陽の法嗣

大日天光子

合掌