『満足!』
満足とは満ちて足りる事なりて、足りて満つる事である。
例えば
食べきれない食物をならべる事が真の満足ではない!
足りるだけが満ちて
いる事が真の満足であり、満つるに足る事をこそ言うのである。
その時、
その時に対応して足りる事を満足と言う。
それを人は足りるを超えてあふれさせる事を満足と思っているから誤つのである。
欲し求め続けても、その欲望は限りなく広がり、その心を満たす事はできなくなるのであり、できないのである。
時々、
知足、
即ち足るを知る心こそが真の満足を知る心とゆえに言うのである。
「器に水を適度に汲むから満足となり、これをこぼさせて汲む事は満足とは言わないのである。一身その身に一着の衣類が重なりて正しく整いゆくから満足であり、一身に十着の衣類を重ねて着ける事が満足ではない。
これは当たり前の道理である。」
「限りない欲求をなして求め、求めゆく事が満足ではない。今その生が正しく満ち足りている事こそが満足である。欲望、欲求に求め続ける事は満足を知らない迷者の心と言うなり。」
「花が花であってこそ満足であり、人が人であってこそ満足である。それを人は欲望を限りなくうめる事が満足であると迷い見失って生き暮らしているのである。」
「一足の足には一足の靴が満足なり!
一身に食するに腹八分目が満足なり!
食べすぎて病み苦しむのは満足と言えぬなり。飲み過ぎて目を回し吐き苦しむのが満足ではない!
適度に満ち足りる事を真の満足と言うのであるから。
真の満足とは足りるを知る心にこそ生まれ、これを知らない心こそ満足のない心と言うのである。」
「快楽も過ぎたら病むなり!その過ぎぬところ程々にこそ満足の位は存在するのである。」
「食べすぎに満ち足りた充実感はあるまい!飲みすぎに満ち足りた充実感はあるまい!あふれすぎてしまったら、もはや満足感は無くなるのである。足りない位のところに暮らせば、常に満足を知れるのである。」
「生命の満足の位と覚めて、そこと住せば迷いの海と沈む事はない。それを忘れて欲と迷い暮らすに苦しみの海と沈むなり。日々、今その時を足りるを知り、満足と感謝に生きれる人は真の満足を正しく得る人と言うのである。」
「欲求、欲望には真の満足はない!
その満足は常に流転して果てしなく広がるのである。企業が顧客の欲求欲望の心のみに、ただ心をおいて満足を与えようとすれば、それは果てしのない海であり、人も企業も迷いの中に沈むのである。欲望、欲求の中には満足という二字の心は無いのであるから。」
「欲望、欲求を満足させようと思えばとどめるところがない。それをとどめ、おさえるところにこそ満足はあるのであるから。」
「智慧と一つになして共に結ぶから満つるなり。一つになして歩むから足りるなり。智慧と共に心となして結び一つに止どめ、一つに歩みゆくに満足なり!
ゆえに今、足りるを知る人こそを満足の人と言うのである。」
「智慧をもって共に一つに歩むは満足中の満足なり!一切成仏、悟りの光と至らしむるは仏の満足にして、一切神、天国と帰らしめるは、神の満足これなり。
自我欲望のみに執し暮らし、追い求めてつかめぬのが迷者衆生の満足と言うものである」
「健康は満足である!されば人として人と建て(健)て、康らかと生まれるは満足なり。平和は満足である!されば一切平等にして平らかとなり、大調和する命の世界は満足なり。
真の満足はまた正道にこそ一と正しくなるを証するなり。」
「三味線の糸を張りすぎては満足の音は得れない!三味線の糸をゆるめすぎても満足の音は得れない!適度にしてかたよらず、中道に整えおくから善き音も出て、満足がゆくのである。この音こそ、妙音と言い、この道にこそ妙音が満ちて、足りるを知る事である。全てにおいてこの適度の形、中道満足の座処を知る事である。」
太陽の法嗣
大日天光子
合掌