卑屈は横暴の親! | 太陽王法の会

No.1
『卑屈は横暴の親!』

権力の圧制横暴は、へりくだりた人間達が生みゆくのである。
しかるにそのような民の卑屈を権力圧制の親と言うのである。
卑屈にして、へりくだり下りたる人々は、よく横暴にして横柄なる人々を生み育てているのである。
人は皆よく智慧と覚め至りて勇気を持って正しく生きれば、そのような人々が逆に減り、滅してゆくのである。
正義の
人々が多ければ
圧制、
横暴は減少し
卑屈の
人々が多ければ
圧制、
横暴は広がりゆくのである。
ゆえに人々は正しく道に覚めて智慧と獲得すれば、世界は平等と近づくのである。
卑屈の人々の多いところに人物はいず、また育たない!
そこにいるのは
ただ権力を自己のものと感違いして乱用する横暴な人々が存在する事になるのである。
卑屈な人々はゆえに権力、
横暴を
知らず知らずに生み育てている親と言うのである。
人はよく真実を見て実体を知る事である。  

No.2
「法は一つ!」  

法は人を選ぶ事をしない!
人は法を選び修する事ができる。
法は人を分けたがえたり、法を分けたがえて争うような事はしない。
人は法をもって
人を分けたがえたり法を分けたがえたりして争うのである。
法は
一切に平等なるが、人はこの平等を自我欲と独善で破るのである。
その者達には法の下の平等が見えないからである。
法と法とは
一つの真理に羅
(連なり)して
一つであるのに
人は
それを分けて争い、傷つけあいて
自らもまた傷つくのである。
全ての法は一つの真理に一つである。
この心を
大声で叫べば
その者達は、
そこに生まれゆく事ができるのである。

No.3
『人の人たる心!』

美しいものを美しいと思い
醜いものを醜いと思い、
きよらかなものを清らかと思い、
汚れたるもの、
濁ったものをそれと思う。
これは人の
人たる心である。
浄らかなものを浄らかと思い
不浄なるものを不浄と思う。
これは人の
人たる心である。
善き事は
善き事と知り
悪しき事は
悪しきと知る!
これも人の人たる心である。
ただこれを真理
道理に添って、
自らの命とかえ
て正しく生きれ
るかで
人は苦と楽とを
分けるのである。

善と悪を
超越して善悪を
正しく見て知り
その上で善悪の
世界とかえりて
善と生きゆく事
が人の人たる
正しい命の営み
である。
全てを
このように
見て、知り
おこなえる人をこそ、よく覚めた人と言うのである。
ゆえに
人は美しいものを
美しいと
素直に感じ、
素直に知り、
醜いものを
醜いと知り
自らの命の上に正しく用いる事こそが大切なのである。
美と醜の対立、
こだわりをなくして、その上で美しい一流の流れと一つの命を生きる事こそが人には大切なのである。
浄、
不浄
においても
浄、
不浄の
対立を離れて
その上で浄らかに生きる事を知るのが人には大切なのである。
苦しみは
またそこより滅してゆくのであるから。
苦楽を超越して
苦楽を知り
苦楽の世界とかえりて一命の楽土とつくる。
この心を
もって行けと教えるのである。

No.4
『困難!』  

困難は人々にとってやりがいを生み
生きがいを与えて、光を与え
勇気を与える道と見るがよい。
それを乗り
越えたる所にこそ、青空が開ける事を知る事なり。
困難という
雲の下にいて
青空が見えぬ時は
むずかしく見えても青空と至りて上からその雲を見れば、
雲はみな無常と流れて空なるを知れるなり。
即ち困難とは
青空に向かって雲の前に立つ姿である。
その雲の
向こうにこそ
広大無尽の幸せと、喜びの青空が開ける事を知る事なり。
困難とは光の前に生まれる雲である。
その雲を脱ければ青空が広大と広がり、輝く世界があるのである。
勇気をもってその雲を超える事である。 脱けられない困難はないと心強くもって、勇気をもって行きなさい。
あなた達は本来皆強い心を持っているのですから。


太陽の法嗣

大日天光子

合掌