法律の道と死刑! 1 | 太陽王法の会

『法律の道と死刑!』  

(その1)


死刑というものは、法律という本義真実にも反するゆえに、これを真の法律とは言えないのです。

殺人に対して殺人をもって報いる法など正道として存在しないからです。

殺人を犯したからと言って何人が、何の権限をもって自らは殺す事が許されると言うのであろうか!

学問、
即ち法律学を優秀に学んだというだけでその者にのみ、人の命の尊厳を犯して殺人を行使する権限を与えるという事がいかにできようか!

その、法律学を学んだと申しても真実のところ法律の本義要諦はなにも知らず、ただ条文の暗記学をなしただけの者に、そのような人として人を殺す権限を与える事こそ、また与えられる事こそ法律の道理、本義に反する事と言わねばならないのです。

その者にのみ、その殺す権限があると申するならば、その者の手によって最後まで死刑を執行させればよいのです。

即ち、
その死刑と決めた者が刑の執行をなしてまた立ち会い見る事こそ、その者の責任と言えるのです。

それを自らの手でなさずして他人の手にゆだねて、それをなさしめるのは自己の手をよごさず他の者に殺人をなす行為を与えおこなわしめる事であり、そのような権限など本来人間として何人にも無いのです。

法律とは
生かし、
守り、
戒め、
正し、
導き、
救うためにこそあるのであり
ただ裁き
罰し、
苦しめ、
殺す事が本来の目的では無いのです。

ましてや人を縛って苦しめる為に生み出される法など存在しないのです。

みな、その命を道に則して正しく生かし正しく道とかえす為にこそ成立しているのです。

法と律は
その義を示し道を示しているのであり、この二字の義と理と道とが解せないでは、その道は正とならないのです。

死刑こそは
その法律の義に相反しているのであり、法律としても
道としても
成立をなさないものであると知るべきなのです。

本来、
殺す者を殺すなどと言うのは修羅と迷いの世界の行為なるに道を知らない無智無明の行為となりゆくのです。

生きて償わせて覚めへと導き救う事こそが法の肝心なのです。

殺人者の想念を正さずして殺してしまえば、その想念は消える事が無いのです。

それを滅するには、その者を導き
償いへと向かわせ真と覚め救う事が大切なのです。

それによって
その想念もまた滅してゆくのです。

法律の目的は
人を人として
命を命として守り、導き正し
よく生かし
救いゆくを本義とし、そこへと全てを至らしめるを道とする!

ゆえに普遍として、その道が正と成り立ってゆくのです。

ゆえに罪に対して罰を与える事は、これ救いなのであると知る事なのです。

されば法は法として正義となり
罰する者には慈悲の心が生まれて
正しい法の道こそが生まれるのです。

しかるに罰せられる者は命の上において正し戒められ
曲がった命を真っ直ぐと帰され
救われる事になるのです。

人は人間完成をめざし真実の命と生まれる為に生きているに、そこにこそ道としての罪と罰があるのです。

されば罪と罰のあるべき相を正しく見る事が大切なのです。

法律とは本来
人を守り、
人を導き、
人を生かし、
人を救うため、
誤またさぬ為にあるのであり
復讐的、
報復の裁きや罰の為にあるのでは無いのです。

法とは智をもって身と結ぶ事なりて
文字の辺の水、
サンズイは智をあらわし
去は一義に一つに土と結ぶを示すのであり水をもって地一切と行き渡らして全てを生かすゆえに法と言い、また一方で
その水をもって
その汚れ
悪垢塵垢を洗い流して払い清める働きとなすに、
これを法の一字と示しているのです。

即ち
人の命に即すると、土、
即ち肉体を示し
その命と生かし
守り育てるを示し、またその命を洗い清めるを示して法とするのです。

因果の二法、
善因善果、
悪因悪果もこの一字に道としておさまっているのです。

法とは
その道と命の理に即して生まれるのであり罪と罰はこの悪垢の払いであり
正し清めであり
戒めであり、
守りであり、
導きであり、
救いとなっているのです。

即ち
ここにおいて命を命として守っているのであり正しく導き帰して救う為にこそ、それは成ると知る事なのです。

そしてまた
その法があるに
命を守り、
道を守り、
人を守り、
国を守り、
命を正道へと導き、正しく生かしめてゆくと知る事です。

法とはこのように本義と示せばただ全てを守る為
正しく導く為
生かし救う為に
そこに生むと知る事です。

このようにその命を道と正しく揃え整えて生かしめ
正しくゆかしめるをして律と整えゆくと知る事です。

律とは道と整える、正しく揃えて行わしめる!

命を道と正しく行かしめるを示すに
それをして人間の行いをきちんと秩序だてた決まりを言うのです。

音律という言葉で示すように、律はきちんと揃える事にして正しい命と生き生かしめ、行い行わしめる為に生みゆきた道の教えと知るべきなのです。

即ち律する事で
自らと人を守り
命を守り
命を正しく導き
正しく生かしめ
正しく行わしめて生かす道と知る事です。

このように
法律とは本来、
人と国と世界を正しく導く為
営ませる為にあるのであり正しく守り、生かし生かしめ
行わしめる為にあるのであり正しく救う為にこそ、本義の道があるのです。

ゆえに復讐的行為のかわりをつとめる訳でもなく報復的裁きの為にあるのでもないと知る事です。

全てが救いと導きと守りの為にあるがゆえに、それはまた成立すると知る事です。

それでなくして
なにゆえ人が人を裁く権利があると言えるでしょうか!

例えば殺した罪に対して殺す事によって報いれば、その殺した人の罪はどこへゆくのでしょう!

なんの権限をもって人に人を殺す権限を与えるのでしょうか!

許せるのでしょうか!

殺す行為は
あくまで殺す行為なのです。

即ち
それは盗む者に対して盗みかえして報いると同じにして道に反しているのは当然なのです。

害に対して害をもって報いる正義など、どこにも無いのです。

悪に対して悪をもって報いる事など無いと知る事です。

全て道理に反すると示すのです。

その罪を法と律しゆくという事は、その誤ちた命を正す事にして導き救いゆく事なのであり、その為にこそ罰があると知るべきです。

ゆえに罰を受けせしめる所を矯正施設と示して、その命を正しめ更正せしめる場所と示しているのです。

これ即ち罰をもってその罪を洗い流してやる事なりて、払い清めて正しく救う事と示しているのです。

ここにおいて罪に対する罰そのものが、その者の根本の命をこそ守ってやる事となりて
罰が導きと変わり、救いと変わり、
生命そのものを守る事と変わるのです。

そこにおいて真の法の救いが正と成り立ち道の正義も成り立ってゆくのです。

それを忘れて
罰を報復的、
復讐的行為の如く用いるのは義に反し、道理に反し、
また真実に反する事と知る事です。

罪とは
非なる行為をめぐらするに罪の相となるのです。

文字は非とまとめる、めぐらすと形にあらわして教えているのですから。


太陽の法嗣

大日天光子

合掌