罪と罰! | 太陽王法の会

『罪と罰!』

罪と罰がある事は、この世界を迷いと苦しみの無い世界とする事が目的であって罰するとか罰して苦しめるとかが目的では無く罰とは即ち、命を命として救いかえす為にこそあるのです。

罪ありて罰がなければ、命は永遠と救われる事は無いのであり、迷いも永遠と去る事は無いのです。

しかるに大悲救いの心のない罰は真実の罰の意味に反するのです。

罰はあくまで救いという大原則の上にのっとってのみ成立するものなのです。

殺す者を殺すならば、その殺した罪はどこに帰結するのでしょう!

神もまた、
殺す者は殺してもよいなどとは言わないのであり誰に
その権利を許し与えたと言うのでしょうか!

よく法の平等と正義の上に立って考えて見るべきなのです。

神も仏も十戒と示して不殺生をこそ教えているのです。

この事実こそよく心に知りて罰はただ罰の為にあるのでは無くして、救いの為にこそ生み出された事を知る事です。

罪に対する罰は
その命に対する教え導きであり
戒めであり
救いなのです。

その真実正道こそ知りて生きる事が人の世界には大切な事だと教えるのです。

人の命においても、全ての命においても憎しみに憎しみをもって報いても
その苦しみはいえる事は無いのです。

恨みに恨みをもって報いても
その苦しみはいえる事は無いのです。

その憎しみ
その恨みを超えて許しゆくところ
助けゆくところにこそ、その苦しみを癒す心が生じるのです。

恨みに恨みをもって報いれば、恨みの尽きる事は無いのです。

憎しみに憎しみをもって報いても、憎しみの尽きる事は無いのです。

恨む事で苦しみ
憎む事で苦しみゆくのであるならば
許し助ける事でそこから離れられる事を知る事です。

許す事こそ大いなる自他一如の救いなのであるから。

真の命は
救う事で救われる事を知る事です。

たとえ
殺人者と言えども、その者を許し救う事で自分も
殺された者も
その相手も
その家族も
皆が救われるのです。

それがこの命の道なのです。

ゆえに人は
救い救われるという事を命の上に正しく
知る事が大切だと教えるのです。  

罪に対する罰は決して復讐では無く
罪に対して罰を与える事は本来命の上においては救いなのです。

殺人者に対して死刑をもって罰し
それを復讐の如く考えるならば
それは誤った見解と言えるのです。

殺された者の
命が尊いように
どんな命もまた尊いのです。

たとえば神、
仏の示す地獄という世界は
罪に対しての復讐の場では無く
その罪を払い清めて戒め正し
その命を正しく覚めかえす事を目的とする救いの場なのです。

その者の罪に対して死をもって報いるよりも、
いかに生かして
いかに人として覚めかえし救うかを考える方が命を生きる本来の人の道であり、命そのものの道なのです。

その悲れなる者を
救う事によって
自分も
殺された者も
その罪人も
その家族もみな救われるのであるから。

よく
因果の道理を知り、罪に対する罰そのものが本来救いへの道なのであると知る事です。

救いへの道ゆえに、その裁きも正義となり人が人を裁いても許され
また正義となるのです。

人は
よくそこに道理こそを見て知る事が大切だと言うのです。

恨むに恨みをもって報いれば、自他の苦しみが一緒についてくるのです。

憎しみに憎しみをもって報いても同じであり
自他の苦しみが一緒にそこに住するのです。

許し助けゆく心からその自他の苦しみはまた去ってゆくのです!

人は心、
命をこそもっとよく知る事がゆえに大切だと言えるのです。  
自分が
盗まれる恨みを
盗みてかえすのであるならば
その盗まれた恨みは誰にかえるのであろうか!

害された恨みを害をもってかえすのならば、その害した恨みは誰にかえるのであろうか!

傷つけられた恨みを傷つける事によってかえすのならば、
その傷つけた恨みは誰にかえるのであろうか!

悪された恨みを悪してかえすのならば、その悪した恨みは誰にかえるのであろうか!

殺された恨みを殺す事によってかえすのならば、その殺した恨みは誰にかえるのであろうか!

恨みに恨みをもって報いてもなんの解決にならないのです。

その苦しみと恨みは尽きるところが無いからです。

罪に対して罰と与えるのは全てその命というものに対しての救いなのであると知るならば、許し救う事で自分もその者も、その家族もみな真実救われる事になるのです。

人が罪に対する罰を復讐の如く考えるのであるならば大きな誤ちと言うのです。

罪に対して罰を与えるのは、その罪の払い清めであり
戒め正しであり
救い導きなのです。

即ち
本来の正しい命、
正しい道と救い
そして覚めかえす為にこそ罰を与えるのです。

それを忘れて
ただ目には目、
歯には歯と復讐の如く罰し苦しめるだけでは道は道として成り立たないのであり法と裁きの道の正義にも反するのです。

罪を憎みて人を憎まず!

無智を憎み悲れみて道と救い正しゆく事こそが罪と罰の正しい道なのです。

ゆえに獄をして矯正の場と言うのです。

されば殺す罪に対しても殺す事で罰する事は、法と真実と道において大きな誤ちである事が知れるのです。  

死刑と言うのは
ゆえに罪と罰の本義によれば道に反するのです。

殺した者を殺す事によって報いても
なんの解決にもならないのです。

その者を
生かし正しめ、
覚めせしめてよく戒め救いゆくところにこそ法と裁きの世界と真実の道があると知る事が大切なのです。

殺人を犯した者を
死刑にして
その執行のボタンを殺された家族の手で押さしめたらどうであろうか!

その人達の心には自らの手によって人を殺したという事実と思いが生涯残ってゆくのです。

それはやがて自らの苦しみとなって自らが持ってゆかねばならないのです。

殺す者に殺すをもって報いれば
今度は自ら達が殺人者となるのです。

そのような事をして死した者が見て喜ぶであろうか!

恨みに対して恨みをもって報いて因果を巡らし、自他共に苦しみを持つよりも、許し
そして救いゆく事で全てが救われる道こそを選ぶ事です。

罪を憎んでも人を憎む事では無く
その無智の命を憎み悲れんでも
人を憎む事では無いのです。

そのような罪と無智の無くなる世界をつくる事こそ人々は知らなくてはならないのであり
作らなくてはならないのです。

人はよく道を正しく見つめて、その罪に対する罰は本来ただその命の救いの為に存在すると知る事なのです。

その罪を戒め正し、導き覚めせしめて救う為にこそ罰を与えるのです。

もし地獄がただ罪人を苦しめるためだけの世界であるならば、そこは悪界であり、そこにおいて苦しめる者達が全て悪人となってしまうのです。

即ちそこにおいて因果も道も成り立たなくなるのです。

罪に対しての
戒めであり、
正しであり、
払いであり、
清めであり、
矯正であり、
救いであるから
それは道として正と成り立つのです。

それが正しい罪に対しての罰と言うものなのです。


太陽の法嗣

大日天光子

合掌