『真実はどこにいても真実!』
真実はどこにいても真実である。
たとえば
獄中にいても
そこに真実を
説くならば
それは真実である。
たとえば大寺院の主座にいても、
それが不真実であるならば不真実なのである。
人間は上面の姿形に迷わず
その真実を見きわめる目と心と智慧を養う事が大切なのである。
真実は誰が説きても真実であり
不真実は誰が説きても不真実である。
たとえ大悪人が説きても真実は真実として動かないのであり大聖人、
大聖者のように
見せる者、
見える者が説きても不真実は不真実として動かないのである。
ゆえに人は人の
姿形に依らす
言葉に惑わされず、真実にこそ依れと教えるのである。
人はこの道理を忘れるから
その姿形に騙され、その言葉に騙され、惑わされるのである。
これこそ真に悲しく人の悲れな姿と言うのである。
太陽の法嗣
大日天光子
合掌