向かいあいて知る命! | 太陽王法の会

『向かいあいて知る命!』    


病みの苦しみと恐怖は生への執着より生まれるのである。

病みの恐れは死への怖れであり、死への怖れは生への執着ちして命への愛着にして命への執着である。

されば病みたる時、ただ怖れのみに己を見失わず、自己の生をこそよく見つめて見る事である。

死と向かいあいて、真実生きるという心を覚めゆく事は命への教えなのであるから、ただ怖れおののいて逃げるより、
その苦しみ、
怖れとまっすぐと向かいあい、
その病みと、
その生命というものをよく見つめ見て、それを感じて、
自らの命というもの生というものをしっかりと見直して見る事である。

そこにおいて
真実の命、
道を得て、
その怖れを越えた心と至る事こそが大切であり、
これこそが神仏の教えるところの慈悲の教えなのでもある。

自分の命というものを見つめさせてくれる!

見つめ直さしてくれるのが、
その病気でもあり、そこにおいてその病と向かいあいて、
死の怖れと向かいあいて、
命を見つめ直して、自己の生命の大切、生きる意味、
生のすがた、
生の意味、
道と覚めるならば、その病みをさえ克服する大きな力が内より生じてくるのである。

大きな苦しみの、
むこうに真実の光、真実の命がある事をよく知る事である。

冬の寒さをぬけたところに春が立つのであり訪れるのである。

闇をぬけたところに夜明けの光明が生まれるのである。

命を命として見つめゆく病気とは、
またこれを教えくれるのであり死を考えるとは、
その生の意味、
大切さを考える事なのである。

人は天地自然の営みによく命を合わせ見つめて真実の命へと帰る事である!

その真実の命への覚めこそがその病苦、死苦を超える道だからである。

死があるゆえに生の意味が生まれ、生が生として輝くのは、死あるゆえにこそ輝くのである。

生を生となさしめるため命を命となさしめるために、死がそこにおかれているのであると知るべきである。

命として生まれ来て、ただその時から死とむかうだけで生き、滅びゆくために生きるのであるなら、人間はなにゆえに、努力し、
学問し、
修行をなしゆくのであろうか!

苦労し、
精進し、
沢山の事に、
耐えながら、
なにゆえにその命を磨き、
高めてゆくのであろうか!

生まれた瞬間から死への一歩を歩み出し、虚無と滅びてゆくとしたら、なにゆえにその命を命として営んでゆくのだろうか。

その生命を
磨くため、
人は道にあればこそ、その生も死も意味あるものとなるのである。

死は死として、
そこにおかれていても虚無と滅びるためにあるのでは無い!

その命を命として
生むため、
営むため、
完成するため、
輝かすためにこそ、その死がおかれている事を気づく事である。

すなわち生の生たる意味を、
そこに生んで、
死こそが生を真実と生かす事を知る事である。

人間、
生命がもし死ななければ生の生たる意味も、また失せるのである。

たとえば花が咲いて枯れないのであるならば、花の花としての命は生きないのである!

草木が芽と出して
成長し、
そこに花を咲かしてこそその命が命として輝くのであり、
花の命が生きるのである。

花は咲き、
枯れてこそまたその花の価値、
尊さが生まれるのであり、
輝くのである。

生も死もよく向かいあいて知る事であると教えるのである。

太陽の法嗣

大日天光子

合掌