無智を払いてこそ救い! | 太陽王法の会

『無智を払いてこそ救い!』  


無智を払わずして真の救いはならず!
無智これを悉く払いゆくに、真の命そこと帰りて救いがなると知る事なり。
無智ゆえに人は無明迷海を流転し、流れ流されてゆくのである。
六道輪廻またこれを教え示すのである。しかるに宗教界そこにありて、我の光明と受けて、その誤ち無明を破られるに、それを恨み、
それを憎み
それを罵り
それを怒る者は、
真が見えずと転倒したる無智の無智とは示すなり。
何故ならば
その無智無明の闇あるに真の命ならずして真の道もならぬなり。
光明大智これをもちて悉く、その闇破られゆくは、その者達にとって本来この上無き喜びこれと申すなり。
その喜び、
その感謝これを忘れて逆恨みとなし
憎しみ、
怒り、
悪害なさんとなすならば
更に闇の闇
地底の底
底の底へと落ちゆく事なるに
その者をして無智なる転倒者と教えるなり。
そはそれみな
権欲、
物欲、
金欲、
名誉欲、
独占欲、
ありとあらゆる欲が渦巻きて
真の眼を奪うと知る事なり!
そはまた、
自分達が誤ちた事によりて
潰れる、
滅するとの恐怖これを思いて妄念に捕まり転倒するのである。
よいかな
よくと真の開眼をなしてこれを聞きなさい!
無智の払われるのはその宗の本来の道、本道とかえれる事なるに
そこと従い
そこと帰るは
その宗を本物と育てゆきて
大きく
正しく
生みゆく事なり。
誤ちと迷い深くして、それ内といだき続ければ内より炎の燃え上がりて、それを焼くと知る事なり。
そこにあるのは
内乱、
内紛、
分裂、
分断、
修羅の相とは知る事なり。
みなこれ
無智を因として生ずるものと知る事なり。
外と争いて
内に争いて
疑心暗鬼を生じて、迷いの海と沈むなり。
宗本道はみな、
和こそを大義の義となし全ての一なる調和を教えるなり。
その道理を忘れるはみな、自分中心主義、自宗中心主義の独善、自讚毀他なるに、そこと迷うと申すなり。
闇と迷いて真実の見えぬ者のところへ、太陽が光明と登りて光を遍ねく照らするに、
その光を
恨み、
憎み、
怒るような愚かが、どこにおるとは言うなり。
みな
その光を喜び、
尊び、
歓喜して、
舞い、
歌い、
讃えて感謝なすに、その世界蘇りて
真と生まれると知る事なり。
誰が道に真実と生まれるを
憎むと申すなり!
素直に光の中に入りて、そこと包まれ、迷と無智これを払いて光と帰るに全ては大と生まれて成ると知る事なり。

よいかな
よいかな!
衆生はその独善大欲の指導者の落ちた迷道がわからず
ともに迷いの船に乗せられて無明の底に沈むなり。
一人一人がゆえに、自灯明の心を大切にして、よくと覚めて自ら命とかえれと教えるなり。
仏になるのも
神と至りて神となるも汝等自身と知る事なり。
即ち我に依りて
その誤ち大と破られゆくは、本来喜びこれと知る事なり。
闇破る太陽あるに、命の全ては覚めるなり。
闇破る者のあるに、全て光とかえると知る事なり。
これなくば
迷い深くして闇から闇と流転して、輪廻の迷いを出れぬなり。
例えば蓮華の華が、太陽大日を見て
罵り、
悪口し、
謗り、
けなすれば
その華みな枯れゆきて、滅びの海とかえるなり。
例えば
万華太陽大日を
悪口し、
軽んじ、
けなすれば
命を悉く失いゆくと示すなり。
太陽大日如来の光明登りてこそ
全ての迷い
闇を払い除くに
全て光とかえると知る事なり。
無智を払われるは
ゆえに
喜ばしい事なるに、これを喜び
これを讃えて、
これを祝い祀れと申すなり。
そは衆生一人一人の命の内に
これを祝い祀れと言うなり。
そこより衆生一切の命は蘇り、
その宗教、
その宗門とて命のかえると申すなり!
そこより光
更に磨けば
みなみな真実にして大と生まれると教えるなり。
小さな自分中心主義の計らいという転倒の物差しは捨てて、真実をこそ眼、
正と開いてこれを見よと教えるなり。
みな真理に一にして帰一するところは、一元これなり。
その途上において自他の対立なして、
罵りあい、
けなしあい、
傷つけあい、
果ては殺しあうに及びては悲れの相と知る事なり。
みな無智ゆえの迷える相と言うなり。
例えば、一山真理の頂をめざして、万門を分けて一々が登りゆくに、その途上にしてであい同じ一山の中で争いあう、
悲れな姿と知る事なり。
ただその真理一山の頂と至りた者のみが真を知るゆえ、そこと見じて大悲救いの心おこすなり。
全ての迷いを払いて一とかえさん慈悲の心おこして、真理実と至りた命をして、菩薩、
金剛、
天人となりて、
その山を下りて済度の海へ出でるなり!みな一なる真理という憧りをさげて船を浮かぶと知る事なり。
如来、
神仏よく、
全一元と示したり
また
同事、
同教帰一と示したり一相、
一味、
一法であると示したり一義の一を教えるなり。
一義の一とは
一道一にして、
全ての道は一に尽きるを示すなり。
一仏乗と申すも、
一仏真理という宇宙即我の一乗即ち、
一つの乗り物に全てを乗せて
一つとこれを教えるなり。
これ即ち
即体、
一神梵神、
真理の諦をあらわすなり。
一印会とは一と命に印すところと出会う事なるに
全てが真理の一とであいて至る道と教えるなり。
一切がその一と至りて大覚成道なして、「目の前の実相、現実を迷わず」、
大きく、
正しく、
真理とともに覚めて生きる事こそ命とこれを教えるなり。
真実の仏を見るとは、これに尽きると知る事なり。
真理の神と至るとは、ここに尽きて一とは知る事なり。
その一においては、対立や、
分断、
争いたる迷いの無きと知る事なり。
ゆえに、
その一の坐をこそ、無上等正覚、
平等大慧、
真の坐処と教えるなり。
太陽大日如来の光とはこのように
全てにあてて全てを包みゆくに
その無智の闇を悉く破ると教えるなり。そことであいて、
その無智を払い破られての
恨み、
憎しみ、
怒り等はゆえに
迷いの迷いにして大迷なると示すなり。愚の愚にして大愚の極と示すなり!
無智を払われるゆえに、真の救いはなると知る事なり!
これ払われずして、真の救いはならずと知る事なり。
みな光と覚めて迷わず生きれるに
その命悉く蘇り、
真と生まれると知る事なり。
ゆえに太陽の法と実とであいて
全てはこれを喜び、これを修して
命とかえよと申すなり!
命となせと申すなり。
その上でその命を実と完成し、真実の命と誕生せよと教えるなり。


太陽の法嗣

大日天光子

合掌

オ一ン・アビラウンケン

太陽の法は偉大なり!

全てを光とかえすなり!