『法を唱える心のあり方!』
真言を唱えるにも、念仏を唱えるにも、題目を唱えるにも、全て自と他を分ける心を取り除いて、
青空の如くゆったりと大きく明るい心で唱えゆきなさい。
自と他を分けたり、自宗だ他宗だなどと分けたり、
そんな争い、
闘争の心や、
対立の心や、
自讚毀他の心では、唱えてはならない。
そのように、
なす事は全て、
その法を小さくして段々に真実より遠ざけゆくと知りなさい。
青空は、
黒い雲も、
ウロコ雲も、
イワシ雲も、
どんな雲であろうと全て一つに包んで、明るく大きく輝く事を知りなさい。
即ち全てを分け互えず一つに包んで、
全てを青空へと返しゆくのである。
この雲を、
あらゆる迷いの雲、無智の雲と見ずれば、その全ての雲の仮有にして、その自性の空が解るのである。
その青空こそが本源の心、真の心としる事です。
生は
仮有、
仮諦、
自性は空、
即ち不にして空諦、仮即空、
空即仮にして、
色即是空、
空即是色と示すなり。
即ち、
不即生、
生即不にして本たる青空に一なるに、
そのままの実相をして本不生とは教えるなり。
これが諸法実相本有の相と知る事なり。
即ちこれが、
仮諦、
空諦、
中諦の三諦円融の諦と示すなり。
青空は故に本にして法身の心、
雲は仮にして仮身の心、
自性の空が報身の心と教えるなり。
されば本不生は、
また三身一如の実相であり、
三諦一如の実相これを教えるなり。
この青空と雲をよく見て、その相と性と体をそのまま自らの心と写し知る事なり。
そして大きく、
明るく、
のびのびと全てを包んで、
青々と清浄に、
そして清涼にかえて全ての祈りは心から唱えゆきなさい。
青空と一如となして唱えるならば、
この地の全てを包む心のゆえに、
もはや国と国、
民族と民族、
宗門と宗門、
宗教と宗教だなどという小さな対立の心は飛びゆきてなくなりゆくと知る事なり。
その上で、
その青空を生みつくるのが太陽であり、大日如来であると
よくその実相を見て、その太陽こそ
大日如来の大摩尼
(本性)
であると知り、
それと自身の内性の仏性、または神性たる摩尼を一つになすを知る事なり。
されば、
そこから命が輝きゆくと教えるなり。
月氏如来とは、
その日たる大日
(太陽)の光を、
大円鏡と合わせて
一となすゆえに、
そこに輝やきが生ずるなり。
この合わせ鏡の法こそ、「日月一如」の明諦、
真理、
命の諦と申すなり。
これも月輪一如と、示す仏画仏像をよく見て、その実相と合わせて、命の上によく見よと教えるなり。
しかるに太陽大日のありてこそ地に咲く蓮華の全てが開くを、これも太陽と蓮華の実相を見て命と知りなさい。
また、それがそのように作られている、あらしめられている事に大いなる意志を読めと示すなり。
蓮華だけでなく、
万華悉くそこにおいてこそ咲きて、
拈華微笑の法と示すも知る事なり。
されば小異小乗に分け互えて争いつつ祈る者達は全て、その青空でも太陽でもないゆえに迷いの雲となりゆくなり。
その迷いの雲で、
その祈りと唱える事は真の相に非ずに、皆皆一を覚めて青空の心で唱え、
大きくゆったりと安定した心と生めと教えるなり。
どんな雲が覆っても雲の上に青空ありて全てを包む事を忘れてはならない。
その青空を青空と輝かすのが太陽大日如来である事も忘れてはならない。
その青空と雲と太陽を自らの心となして生まれる事こそが、全ての法の肝心なると教えるなり。
これが
真言、
念仏、
題目等の、
それを唱え祈る時の心と、これを教えるなり。
されば宗や法を分ける事なく万法の至るところは一と見て、一相、
一味、
一法を知り、
多法一源を知り、
一と生まれゆけとは教えるなり。
仏とは、
そのようにして生まれるものと知る事なり。
ゆえに全ての法を説きゆく者ともなりゆくなり。
これこそ全ては忘れず大きく覚めて大きく祈り至り示すなり。
神仏界は光の中に実と存在するに、
その大虚空と自身一命の内に、
それを覚めて、
そこと実と出会えて言うなり。
そこにおいて全ては真実救われゆきて、安心の命を得れるのである。
安心の家とは、
ただ自身一命の上に得て、建てゆく事と知る事なり。
その完成した命をこそ、真なる宝塔これと教えるなり。
ゆえに私は、
また自らが
アマラヴァテイ、
大宝塔処とも示し教えるなり。
その私の命から溢れる泉の如く悟りの智慧の教えが生まれくると教えるなり。
太陽の法嗣
大日天光子
合掌