『固定観念を捨てて道を往け!』
友よ、これを聞く事なり!
人は、その固定観念に捕まりて、
その計らいの枠の中から脱けられないから、自在を無くすのである。
即ち
「格に入りてその格を知らざるはこれ道に非ず。格に入りてその格を出でざればまたこれ道に非ず。その格を知り、その格をいでゆくところにこそ、真の道があるとは知る事なり。」
友よ!
例えば、水が水桶に入りて水桶を知らざれば道に非ず。
その水また、
水桶を出でざれば、またこれ道に非ず。
水よくその水桶を知り、その水桶をいでゆくにこれ真の道と言うなり。
水、
水桶に執かまりて動かざれば、その水は腐るなり。
固定観念の鎖とは、これなり。
水よく水桶を知り、その水桶よりいでゆくに自在の道がなると知る事なり。
全ての器を見よ!
その器と入りて器を知らざれば、これ道に非ず。
入りた一切の物
(者)
その器を出でざればまた道に非ず。
みなその器と入りてそれを知り、その器といでゆくゆえにして自由自在の道、正となるなり。
即ち全て、
その固定観念に執まりて、その内にのみあるならば、それをそれと知る事も、
それを超える事も、いでゆく事もできぬなり。
ゆえに、そこにおいて全て自在性を失いゆくと教えるなり。
されば、
その固定観念こそ捨てて、大きく自由に自在を得よと言うなり。
宗教の一門一門の者達は、
これを自ら達の命、相と写して見よ。
その一に執着するから自在智を、永遠と得れぬのである。
その固定観念に縛られ執らわれているから人は、真が見えぬのである。
もっと大きく、
もっと広く、
そして深く、
全てを読みなさい。
真の道はそこにこそ広く開くのであるから。
一宗一門の固定観念に執まりて、そこといでゆく事のならぬに、自在と大の道を得れぬのである。
そこに青空ありて全てを包みているのに、その一つの雲のみに執らわれて大と得れぬは、
真、
愚かな相と知る事なり。
もっと自由自在に命をゆきなさい。
真の自在智は、そこにこそ実と生まれるなり。
宗教対立は、その一門の固定観念の内なる更なる無智の計らいの中に捕まるから、それをなすのである。
即ちそれらは全て、米びつに入りてその米びつを出られぬ米にして、水桶に入りてその水桶を出られぬ水と言うなり。
米も水も、そこと出られぬならば、ともに約たたずして、
腐りゆくと知る事なり。
意味をなくすと知る事なり。
ゆえに、そこと早くいでゆきて、真実の大きな世界を見つめて大きく真の智慧を得て自在を得なさい。
真理神仏の世界は大きな一の世界と覚めれば、その対立する愚かを全て滅しゆくと知る事なり。
宗教対立は、
固定観念という器の中の水であり、
その水、固定観念の水ゆえに、そこと出られぬに、みな腐るなり。
衆生は、そのような水を用いるから毒となり、迷愚の海と沈みて病みと苦しみを生じるなり!
自と害い、
他と害いゆく!
そのような毒こそ捨てて、その器の外の自由自在の天を得なさい。
友よ、よいかな!
その固定観念の囲いより、いでゆくゆえに自在無礙を得れるなり。
その囲いより出られぬゆえに、小乗と迷いて病みゆくなり。
これ即ち、鳥籠より出られぬ鳥の如きなり。
鳥その執着の籠よりいでゆきて、
はじめて大空自在の天を得れるなり!
片寄りて執着するはみな誤つ固定観念の籠の鳥なり。
そこと執着して出られぬゆえに、自由の天地をえれぬなり!
その籠と出でゆきて両翼自在、中道を本として飛び立つゆえに広き世界が得れるなり。
片翼に片寄りては、また飛ぶを得れない本道の実相、
鳥の相に見つめ学べと教えるなり。
宗教者よ、
特に日本では
創価学会、
顕正会、
日蓮正宗
等々の者達は、
この心を開いて、
そこと脱けなさい。
そもそも一乗法華とは全ての対立をすててゆく大きな道と知りなさい!
その真実に早く覚めなさい。
これは世界と見ればイスラム教やキリスト教等にも言える事であり、世界中の対立する全ての宗教や国にも言える事である。
その愚かな対立を離れて真理真実を知り、調和世界を生みなさい!
その和こそが
万道の義にして、
万宗の極にして、
万命の真実なのであるから。
早く覚めて真の平和を生めと教えるなり。
太陽の法嗣
大日天光子
合掌