固定観念の鎖!
全てを自在にとらえて、そこに正しい道をこそ見よ。
即ち全て義と道理にそうて
それを見つめて
大きく正しく知りなさい。
誰が言っただとか、誰の言葉だからだとかの、その固定観念に捕まりてそこから脱けられない者を、自在性を失った者と言うのであり
米びつの中の米粒と言うのである。
道とはまた
そこと入りて
そこといでゆくところにこそ、道があるとは知る事なり。
それをよく知り
正しく行うに正しい成長が一と生まれるなり。
多くの者達は
その固定観念の器の中に捕まりて出られず、執らわれているから広大無尽の真を得れぬなり。
宗教において自他と対立している世界は典型的なこれなり。
誰かが言ったから、言っているならなどと言う事は
全てではないことと知る事なり。
全ての教えにおいても、その小さく古い固定観念のみで、それを論じて争えば、全て実を知らない者とはなるのであり、それを打ち破りて大空と出てゆくところにこそ、自在なる智慧が開かれるなり。
私の説くところの万教数千の教えも
本地大日如来の
「阿」と言う一言にすぎず、ほんの一部にすぎぬなり。
この本地如来の阿が全ての世界、
全ての命、
全ての声字、
全ての声字実相を生じて万法と生み出し、万法と説きゆくのであるから。
されば、
ただの人の計らいたる固定観念でこの
「阿」を判じ
論じる事こそ
無智の証となりゆくなり。
その本質を知るには、その「阿」と同一のそれを実と知らずして真のならないのである。
阿の実相と本質を知るには、その阿の実体とその形相の全てを見つめて、ただ阿とならずして知る事はできない!
人は全てにおいて決めつけた固定観念のみでそれを論じているから、このような当たり前が理解出来ぬのである。
真の自在智を得るとはゆえに、その固定観念の鎖をこそまず切るを知れと教えるのです。
その為にも真実の智慧を着け悟りゆけと言うのである。
太陽の法嗣
大日天光子
合掌