日蓮の名義! | 太陽王法の会

『日蓮の名義!』  


日蓮の違い
父を妙日とこれ名ずけるなり、
日蓮の母を妙蓮とこれ名付けるなり。

その父と母との間に妙と生まれた子ゆえに、これを日蓮と名ずけるなり。

妙日とはこれ天を示して表すなり。

妙蓮とはこれ地を示して表すなり。

古来天を男とし
夫となして
地を女とし
妻となして
天地一命の妙を示すと知る事なり。

即ち
大義一実と教えれば太陽日輪
「天」と
地球地母
「地」の理これなり。

その間に冥にして、一命一体と和して生まれたるが
その子これなり。

即ち
この夫婦冥合の一より生まれたるに
妙日の(日)と
妙蓮の(蓮)とを
一如一命となして、日蓮とはこれを教えるなり。

太陽ビシュヌ神の、中心に冥合して
そこに蓮華と生じてブラフマ一となすはまた妙道の真これなり。

妙日、
妙蓮そこに一体してよく子を生みなすに、そこに生まれたる子をまた、(日蓮)とは名ずけるなり!

全てこれ法諦大妙
の妙にして
甚深大法、
真のその道を教えるなり。

されば地たる母、
地母より涌出して生まれたるに、
その子をまた
地涌の菩薩と言うも道理なり。

我、
太陽法界宮の
大日なるに、
この名義甚深大妙と示して、
かくと教えると知る事なり。

日蓮ゆえにまた、
法諦一命の名義これと授くるなり。

この甚深、
我等太陽一族の知りゆく妙と知る事なり。

されば、
天を父として
地を母として
ともに尊び
大切なして生きるが、日蓮とその門徒の唯一の大事と知る事なり。

人の計らいを超えゆくところで、
我の示する心こそ全ては、命に知れと教えるなり。

日蓮自身この甚深の中に秘めたる密の解せぬは、道途上のゆえと示すなり!

この実、
法教実相と読めば、法門を分け対立する心のこれ生まれぬなり!

宗道の分ける心も生まれぬなり。

ゆえに我、
大日として
この地涌の子たる日蓮を実と釈して、
法教の一と示して導きゆくと知る事なり。

されば、
その門の衆徒一切また我の弟子の如くして、皆末に我と至るべき者達なると示すなり。

されば、一切地涌となしゆく蓮華、
太陽と一如となりてこそ咲くを気づき覚めて、
大日如来に一と帰れと示すなり。

「我の教えに
一と帰れば、
その者達悉く皆、
太陽の家と帰ると証するなり。」

太陽大日と離なれて日蓮の無き事は、
その父母天地を離れてその子の無きと同じなり。

されば
大日の子たる命と、その衆徒皆また覚めて、自らの日蓮を内と覚せと教えるなり。

そこにおいて真実の日蓮と生まれるは、汝達なると示すなり。

妙法蓮華経は
そこにしてまた、
実と咲くとは教えるなり。

妙日と
妙蓮の子が、
これ日蓮なり。

日をもって
蓮華と咲かすがこの意義これなり。

この父母一体冥合してこの子を生むと知る事なり。

されば、
妙日の(日)と
妙蓮の(蓮)とが、一体して一如と妙するにはじめて、日蓮の生のなるとは示すなり。

太陽大日輪の日と
離れて日蓮無く、
太陽大日を親としなくしては、日蓮も、蓮華も咲かぬは道理なり。

地母、
地大阿無くしてまた、地涌に子等の生ずもならぬなり。

日蓮は、
妙日の日を親として(父)
妙蓮の蓮を親として(母)
一と生ずる教えをそこに聞く事なり。

されば我の法教と否定するなら
日蓮は完成なるもならぬなり。

ゆえにこの道理をよき聞いて、
我の示する大日の教えこそ実と修して、太陽大日如来を大切になして生きよと教えるなり。

摩訶毘盧遮那とは
大日如来の事で、
毘盧遮那とは古来太陽の事を示しているも知る事なり。

妙蓮は
妙日に
抱かれてはじめて、日蓮を生むなり。

これを命の教えと聞けと申すなり。

法妙法諦これにして、大日に抱かれ包まれてこそ、
はじめて蓮華の咲くを知る事なり。

日蓮これのならずばまた、真と生まれる事もならぬなり!

成仏成身、
即身成仏とは、
この密にあるとは知る事なり。


太陽の法嗣

大日天光子

合掌