一乗本仏の相! 3 | 太陽王法の会

『一乗本仏の相!』

(その3)


妙法蓮華経は、これ正法真実なる一法であり、しかるに
これをして日蓮の、当体として久遠元初の本仏一乗仏なるともうするは今だ、
そこと至らぬゆえに誤ちこれと証するのである。

仏の法に
異なった法は無く、それぞれの
国、
機、
各々
の心に応じて法を説くのであり、衆生の心がそれを異なって見えるだけであり、全て
一相であり
一味であり
一法なのである。

それを知らず分け、対立している者は今だに、その仏の心と至りておらず道と、悟りの途上の者と言えるのである。

妙法蓮華経を唯一人法体一の日蓮として私物化なすあり方これも誤ちにして、
法を怖れず、
ないがしろにする愚かな相と言うのである。

妙法蓮華経は日蓮一人にしてなる法に非ず!

日蓮も
名もなき凡夫、
凡人も一つであり、一切衆生も一つである。

ゆえに妙法蓮華経とは真実一乗そこと至りて成身なせば、
一切衆生、
皆これとなりて分けるところがなくなるのである。

一つの法
一つの味
一つの相を遍く説くのであるが
その見る目、
至らぬ人には
みな異なって見えるだけなのである。

しかし
みなただの一法にしかすぎないのである。

仏は衆生の
国、
機、
心に応じて
色々の船を出して救うのであり導くのであるが、その全ては一乗という一つの乗り物にすぎないのである。

迷いの衆生には異なって見えるだけで仏の目には、ただの一つの乗り物にすぎないのである。

例えば
信じようが
信じまいが、それと唱えようが
唱えなかろうが
みな変わりないのであり全ては仏の胎蔵に抱かれるのであり、道に一つとあるのである。

その悟り彼岸と開くるに、この法
また正法の一とし、一つの船として開くのであり、これを
日蓮一人の宗門の
法のように私物化して考えている宗門、
教団のある事は、
はなはだ無明なりて大きな間違いなのである。

例えば日蓮宗でない者でも、その組織などというものに入らずとも、その法を自らの彼岸への船とする事は自由なのである。

教団、
宗門に入らなくては持てないというような法は本来無く
一人一人の命
一つ一つの命のために法の橋は架けられ、船は出されるのである。

蓮池、
泥池に静かに咲く
一輪の蓮華、
誰にも知られずとも妙法蓮華経なのである。

私物化して
考える事こそ真、
愚かしい相であり、迷いの相である!

日蓮これ真、
道に熱心にして、
また仏に選ばれし
聖人でもあるが、
一乗の立場より見れば、その悟り今だ至らずして道途上の、菩薩にして、これを一乗の本仏などと示して妙法蓮華経の
題目そのまま日蓮にして、
唯一人法体一の本尊と言い、
本仏論と掲げるは、これ大いなる誤ちである。

題目これを正法、
如来の内なる一法とは証せるが、
これのみが正法と言うのは誤ちである。

ゆえに真の仏の心、これを知りて
一切を分断対立して争う体質をこそ正す事である。

仏の慈悲これを大と解して一切を知り、大いなる道とかえれと言うのであり、
決して法を個としての組織のものなどと私物化してはならぬと言うのである。

如来の与える法は全てを道と至らしめ、真実の命とかえらしめんがために開くのであり、人の計らいなどはるかに超えるのである。

よく世界と
真実を広く
大きく見て
その眼をよく開いて正しく全てを見よと言うのであり、その迷いを解き放つために私はこの世に出て、法を説くと示すのである。

一乗の正法の者
その分断対立をなせば道からはずれるに宗これを分けずに一と見て大きく悟りかえれと示すのであり、そのために私の教えを正しく聞けと教えるのである。

「真理
一乗の神仏、
一切の神仏、
一切衆生これ皆神仏の智見と至らしめ、神仏の智見と悟り入らしむるを目的となすのである。
各々に応じてあらゆる法と方便して一つの法これを説き、
その一つの目的をなすのである。
それが一切の宗教にし世界にして、
一切の世界の営みである。
これこそを覚めれば一乗の真、更にこれ開くのである。」  
「大一乗真理みな、一つになりて大いなる法これを説くなり!
全てを一と至らしめんがために、
世界に宗を開いて道これと与えるなり。人自ら達が至る道なるを教えても、
それを信じ行じ、
修さぬに、
衆生、
迷いめぐりて暮らすなり。
ゆえに苦より解脱できぬと示すなり!」

「脱けよ、脱けよ!その無智無明より脱けよ!
皆、光と帰るを私は望むがゆえなり。」


太陽の法嗣

大日天光子

合掌