『一乗本仏の相!』
(その2)
日蓮宗これ示して、日蓮をして久遠元初の本仏、唯一本尊と申する者達はこれを聞く事である。
日蓮一道においては真、
悟りと選した聖人なれど、その悟りは今だ一乗仏とは至りてはおらずして、その智々また完成しておらず、その理も理解しておらぬゆえに、これを申するは真とこれ反するのである。
一義のところで示せば
一切天地、
一切万物、
一切衆生皆、
久遠元初の本仏と
これ一如一体なるが、それみな一切の
一切であり、
無明も法性も一如、凡も聖も一如にしてそこにあるのである。
しかるにそこと覚めて真実の一乗、この法と悟れば絶対に、分けたがえて争う愚かはないのである。
如来はその分別計らいを離れた一を知るのであり、その仮の分別に迷いて対立したりさせたりなどしないのである。
ゆえに日蓮をして唯一の一乗本仏などと申すのは自宗独善と迷した欲と傲りの、言葉と言えるのである。
ゆえにその分けたがえて争う大迷これを解きゆくためにも真実を示し与え、
日蓮の末は
「蓮性如来」とは言わず
「不軽菩薩」と示したのである。
※(日蓮こそ、
その不軽の行こそ大切にしてその行をして真の一を悟りて一と至れと、
「如来」真理の側がこれと与えたと知る事である。)
その信奉する者を信ずる事はよい事でもあり、正しい事でもあるが、
人としての日蓮には誤ちも沢山あるに、「その人に依らず」
「法にこそ依れ」と言うのである。
人は覚めの月も持っているが、また煩悩と闇もまた持っているのであり、実と大悟せぬ者においてよく自己を仏陀だの、救世主だのと言い迷ってしまう
(大川隆法のような)者が多いのである。
少しばかりの神秘体験に己を見失う事はそれであり、仏だのと名乗りて上だ下だとなしている者達、宗教を利用して
金集めばかりしている者達
みな妄者、
迷者これである。
それに騙される者達こそ真、悲れである!
※なぜならば己自身で悪趣を金を払いて買っていると同じだからである。
しかるに信ずるにゆきすぎず、よく道こそをゆけと言うのであり、
盲信、
そのゆきすぎがかえって多くの人々を誤またしゆく事こそ知りて、
早く改める事である。
日蓮これ
真、
法華正法の行者なれば、この誤ちこれをおしみて、これをゆえに正すのである。
「ゆえに、正法の一とある法華門の宗徒はこれ、よく真理と見極めて、その大迷の最大の毒こそを早く断たしめる事である。」
「そことなさねば、
永遠に皆、一乗これと悟り至る事は不可能にして、真の大悟成仏とは至れぬに、よく戒め、正してこれを教えるのである。」
『私は仏法、
宗道一切の正法守護神にして導師でもあるゆえに、これを申し示して正しくその者達を正法の道へと導くのである。』
その無智無明の一なるは、
自讚毀他、
他の宗の一切を誹謗して、その真実を説けずして、また自ら達をかえり見ず、
自分達がその入り口も見ず至らぬに、それを忘れ神仏さえも軽んじ誹謗して有頂天になっている相に、悲れ無明の相を見るに、早くその愚かさこそを覚め、生まれかわれと教えるのである。
続く
太陽の法嗣
大日天光子
合掌