一乗本仏の相! 1 | 太陽王法の会

『一乗本仏の相!』

(その1)


天地一乗如来の内なる草木花々悉くこれみな地涌の菩薩にして、一乗如来と一如にして一体である。

ゆえにまた、草木、花々みなこれ、一乗如来にして、その応化にして、三諦三身法身である。

三諦これを
空諦、
中諦、
仮諦と言い
三身をこれ
法身、
報身、
応身と言う。

この一乗如来すなわち天地一乗神仏をして、
胎蔵界の大日如来
(摩訶毘盧遮那)
と申し、
また金剛界の大日如来と言うのである。

この理よく至らば、一切万生これみな悉く大日如来一如一体なる理そこに至るのである。

この一乗神仏をまた、阿毘羅吽欠如来と申するに一切また悉く阿毘羅吽欠の当体身と証するのである。

更に宇宙釈となせば広大宇宙の中尊太陽みなこれ大日如来なるに、その太陽宇宙をまた法身大日如来と申して、一乗神仏と言うのである。

更に
小と映し合わせて大となすところの
人間生命宇宙
これみなその大宇宙、天地一如一体にして成るゆえに、そこと悟り至るを大日如来と至ると言うのであり、それ実と成道開悟して完成するに、即身成仏と言うのである。

この理と智と至るがゆえに真の一乗と至ると言うのであり、その至りた者を天衆は讃えて
毘盧遮那遍一切處と言うのである。

ゆえに真実ここと大悟至りた者ならば、一々を分け隔てる事などなくなり、万法一切のゆくところの道これを知るのである。

一切はみな大日如来(摩訶毘盧遮那)
であり、阿毘羅吽欠(法身大日如来)
なるを覚めれば、全ては大一乗の一と至るのであり
ゆえにやれ
法華だ
念仏だ
真言だ
禅だと分けたがえて対立する事も、やれ神だ、
仏だ
神教だ
仏教だと分けたがえて対立する事もみな無くなるのである。

真、
一乗と至りたと申するならば一花一輪分ける事なく、
その一乗一如の釈これをなしてそれを説くのである。

はたまた宗教宗門の一切を見じて、その道のゆくところと、その法の正なるをみな見じゆくに、これも分ける事なくそこの宗徒を超越して、真理のところでみな一つへと至らしむるのである。

これを当たり前に成すのが
真、
一乗如来と至りたる者なるに、これとなせぬ者をして、
一乗神仏、
毘盧遮那遍一切處と至りたる本仏などと申して人々を騙し誑かす事は真これ大愚な事である。

一乗本仏の覚、そことまこと悟り至りたる者ならば、三千世界に万法ありてもこれを分ける事なく、みなこれを一となすのである。

そこに至るのが、
真実の悟り、大悟なるをよく知りて、
分断対立して争う者達は今よりよく改めゆきなさい。

対立し自ら争い、他をして争わしめて、悪趣苦界を望むほどの愚かはなきと気づいて大いなる命に一の境地とかえれと言うのである。

宗を分けて争い、ないがしろにしあいて傷つけ合い、
誹謗しあう者達これみなゆえに、
正法誹謗者なると証するのであり、それこそよく命に知れと教えるのである。

続く


太陽の法嗣

大日天光子

合掌