験証体験こそ真の道! | 太陽王法の会

『験証体験こそ真の道!』  


大日天光子はむずかしい学問の中に遊ばず!
真の真理実法の内にこそ道を成すのである。
難しき学問これまた頭を鍛える道なれど、その学問と進みても至るところのみな末は私の至りたところゆえに私は正しく法に依りて、真の真理実法の内にこそ道を成し続けるのである。
これを申しても知識ある人々にはなかなか理解できないだけである。
私は難しき事これを学ばぬが実と法を修して道これと開き至りて、それを体認体得なすゆえに経文漢文これを読めずともその真を知るゆえに、よく道を成すのである。
ゆえにして日蓮と申す二字その名を見ただけで微笑み!
ただこれをして大と正法これを説き示すのであり、そこより一乗の法これを説き、その法これをまた一と説くのである。更にまた、
法然、
空海、
道元、
最澄、
それら名僧高僧、
大聖人と言われる、これらの名そのままにして二字名字即の真法これをまた説くのであり、それみな一乗の法に一とそのまま説くのである。ゆえにして、
それ真、
妙にしてつけられたるにその当人達よりよく知り、
よくこれを広大と説きゆくのである。
ゆえに、難しき用語の漢文経文これをとけずとも、一切それの教えるところの真を説くのであり、
そのみな至るところを説くのである。
私の示す教文をよくと見て経文と合わせればゆえに同じような教えが合わさっていても不思議はなく経文を見ずとも、
それを自らで示すという事こそ人はよく知る事であり、それこそが自らをして実と至りた真の証となるのである。
真、
至りたる者ならば、他の教えに依らずとも自ら説くのであり説けるのが当たり前の事であり、くだらぬ正邪の対立など意味をなさないのも当然である。
題目も大と説けば、念仏も大と説き、
真言も大と説きて、全てを一と証明してしまうのもまた、
よく至りた証であり当然の事なのである。
私は、
法に依りて真理これを実と開きて験証し、そこにおいて天地宇宙、太陽これと一となりて法をそこに説き示されるに、実と開眼歓喜地も得、頭頂に香油を注がれもし、香華をふらされるも知るのである。
天地全てを如来法蔵の私の経典となしてゆえに私はこれを説くのであり、私と私を含めた一切世界これを一にしてそれを説くゆえに、真実の真経これを説くのである。
正法実法の世界はこれ真実にして実存在にして神妙神秘偉大であり、偉大ゆえにして私はそこに大と修して智これを鍛えて、その道と至りたのである。
なにゆえにこのように示すかと言えば、ただ知識学問だけに酔いしれて頭、学問で上面だけなでて真と道となさぬ者の方が多いゆえであり、はたまた知識のみで真実を知らぬに、
ただ対立、
論争や、
権を競う者これの多いゆえに示したのである。
真理実と至る大切こそを教えて示すのであり、人みな正法と修しなしゆくに、
そこと開き至る事、心と智恵を磨く事、真の悟りと得る事こそが一番大切と教えるためにまた示したのである。
真の心と智慧を完成なせずして、道を知らず見ずして、学問知識のみに傲りて迷う人、
真に多くして、
みな正法正道これの大切を忘れるから、道に心と智慧こそが第一大切と教え、
真理と実と参入する事、開示する事、
出会う事の大切こそを教え、そこと開き至りた私自身を実証して示し、その智々の教えこれを示して見せるのである。
正法、
成道とは、
形、
形式、
儀式にあらずして、その真実とは、
その一人一人の心と身で実と至りて実と開いて、
体験、
体得なす事にあるのである。
経験体験に優るものはなく、
それを知らずしては、いくら頭が良くても真実は解らないのであるから体験大悟した者には勝てる事などないのもまた当然なのである。
そこ実と成道開顕するゆえによく悟り、そこより学と修せば理解ができるのもまた当然なのである。山と実際に登った者こそ、その山を実と知るのであり登らずしてそれを論じ争いても全く意味が無いのであり、
その法水を飲みて、はじめてその甘露も知れるのである。
人のビンに入れた水を億千万億の金を積んで買ったとてなんの意味もない事なのであり、
売って、
買う者こそ愚かである。
正法に依りて、心と智慧を実と開きて後よく精進なして学びまた磨くに、真の学と身につくのであり、道また実と成るのである。
なによりも正法に依りて、その命で実と至る事こそが真実の道ゆえに、その実こそを正しく信じて精進至れと教えるのである。
宗教者、
宗教家の戦いとは、宗教者どうしで論争し相争う事が戦いなのでは無い。
ましてや、門派を立てて上だの下だのと論じ争いて、それに明け暮れる事でもない。
宗の実を知らぬ愚か者だけが、それを迷いてなすのである。宗教家、
宗教者、
道の者の真の立てて戦いとは、一人でも多くの人の闇を破り迷いをとき、救いゆく事である。
一人でも多くの人々を真理の智見と悟り入らしめて覚めさせて、その真実の命、真実の道へと救う事である。
その一切衆生済度という真の戦いを忘れて宗門を分けて争い論にばかり終始する相は、
道の者の相ではなき迷いの者の相であり神仏の世界の者ではない事を知る事である。
宗の世界は、みなそのためのみに自分を鍛え、
磨き、
道を成し、
悟りへと至るのである。
ゆえに自分の心と智慧を鍛え、自ら神仏と至るのが道であり戦いなのである。
それは一切衆生済度にありて一人一人の人間を実と覚めさせて救う事こそが戦いなのであり、
そのために生きる事が道なのである。
神仏の道はみな一つであり、その道と入るゆえに、
神道、
仏道、
人間道と言うのである。
「世界を平和の天地とかえし、一切衆生これを救う事こそ真の道の者の戦いなのである。」
「机上学問で知識大と至りた者も花一輪これをして一乗一切、この法は説けぬなり。法に依りて正しく至れば机上学問の無くしても、仏一文字明、大一乗これを広大と釈し説きてその一切の真また示すなり。ゆえにそれだけをして全てを超えて仏の仏たる証を示し、正理これを説きゆくなり。学問は、正法をして実と至りた智慧を超える事はできぬに、正法にこそ皆、正しく依ると言うのである。法に依りて実と至る事こそ正道なるに、人皆、早くそこにこそ覚めよと言うのである。さすれば、宇宙、天地大自然、一切世界がみな法の師となって輝き、生まれ来るなり。一切経これと至りて生きるとは、一切世界を見て実と生きる事なるに、みなよく法の教えを正しく信じて、その正法ににこそ依れと言うのである。」
理解に優る力これなし!
相手を論理これを持ちて、いかに力でねじふせようとしても、それを信服させる事はかなわず!
それ論をもって相手をねじふせてうち崩し自らの下位へとつき従わさんとする心があるゆえである。
相手の心をよく理解なして、その相手よりも更にその理解優りて、それを説く力あれば自然と相手を従えるのである。
そこには従える心も無く従えられる心も無く。
ただ、たがいの理解これを生むからである。
ゆえに理解しあうという力はどんな論法よりも勝りて、大きな力がそこに生まれると教えるのである。


太陽の法嗣

大日天光子

合掌