界際と一念三千義! | 太陽王法の会

『界際と一念三千義!』  

よく聞きなさい!
「界」とは区切りをつけて両側に分けた境目を言い、これを「さかい」と言うのである。
また、区切りの中の領域や社会を言い、区切りをつけて分ける事を言うのである。
されば全て分別釈明の方便にして、実相に界際など無くみな一とは示すのである。
界際はこれゆえに修体一命の方便これであり
即ち十界

「地獄界」
「餓鬼界」
「畜生界」
「修羅界」
「人界」
「天界」
「声聞界」
「縁覚界」
「菩薩界」
「仏界」は
これ、修体釈明の方便これであり、界際を別して論じるのは天空虚空に
「さかい」たる壁を立てて別するが如きであり、いずこにこのような界があろうか!
例えば声聞界と言い縁覚界と言い
菩薩界と言い
その界際のさかいがいずこにあると言うのか。
界とは、区切りの中の領域や社会を言い「さかい」をつけて分ける事これを言うのであり、ただそれだけの界など元々無きゆえに、界際のまた無いのである。
されば十界と申して別し分けゆきて仮に示するは、修体釈明の方便にして、分別釈明のための方便これである。
されば十界の方便これを立てて別し争い論じるはみな誤ちであり、十界即ち一命修体の方便これであり
十界も
百界も
千如も
三千世界も無く
ただの一界これが真実である。
一界釈明と別し立てて争論対立となすはゆえに、悲れ実相の見えない無知者の見解これである。
十界互具は、これ一界釈明修法の方便!
されば界際と立てて別するところの界これの無くして
十界これの無く
十界これの無ければ百界無く
百界の無くして
千如これの無いのであり、即ちそこにおいて示せば、一念三千義これまた、ただの方便これである。この釈明説法のための方便これをもちいて、一念三千これを
あらわすゆえに
正だとか、
邪だとか論ずるのもまた迷者の証である。
事の一念三千だの、理の一念三千だのと申して
上だ下だ
本仏だ迹仏だと申して論争迷論となすは愚かにして、界たる意味も読めずして解せぬ者と言うのである。
さればそのようなくだらぬ論に迷い争わずして、これを一命修体の方便教と知りて、ただ自らの心と修しなさい。
これありて正だとか、これ無きゆえに他は正では無いとか、この法教を盗んだとか盗まぬとか、言う事もみな大愚の論ゆえに、早く気づいてその争いこそを滅し尽くしなさい。
一念三千義とはゆえに方便教にしてその釈、真とは言えず!十界、
百界、
千如是、
三千世界などと算術と遊びてもそこに真実は無いのである。一念三千とはそもそも、一心一念瞬時の心にして、一命の日々時々の境界これであり、例えばその一念によりてその時々の生命のあり方が決まり、そこにあらわれる相を示して、十界の境界の分別これを教えるのである。その境界を示し方便とあらわしめて
仏界
菩薩界
縁覚界
声聞界
天界
人界
修羅界
畜生界
餓鬼界
地獄界とは示し教えるのである。
即ち一念の中にこの十界が一つに具っており、その一念瞬時のその時の境界が例えば修羅となっていても、その者が絶対の修羅では無くして、その修羅とあらわれた境界の中にも十界が互具していると示すのである。
心の持ち方、生き方によってその境界は仏にも
菩薩にも、
天人神々にもなると示すのであり、そもそも、この十界ととらえて各々界と分けたがえて
「さかい」をつけて区切るなどという事は無いのであり、十界という世界がそれぞれさも別してあるように示すのはゆえに大きな誤ちなのである。
人界の上に天界があり、天界の上に声聞界だの縁覚界だのがあると申してそこに界際をつけて、それぞれの世界が区切られてあるように申すのもおかしな事であり、天界の外に各々の世界があると申すのも誤つ言葉と言うのである。
もともと区切りなど無く、別したそのような世界など無いのであり、全て修法体一念の境界を釈明と教えるための方便なると示すのである。この十界方便教をもちいるも、この十界の外に百界があるなどと申するのも、界際の意味の知らない愚かな釈と示すのである。
十界とは方便これであり、この方便ともちいるも、十界は十界にして、百界など何処にも無いのであり、十如是も即ち、十如是は十如是にして、これも一を開いた説法なると示すのである。
千如是などはいずこにも無きと知りなさい。
一を開いて十界と示し、一を開いて十如是と示し、道を教えると知る事である。これを算術の数遊びとなして十界×十界で百界だの、百界×十如是で千如是だの、それに三世界をかけて三千世界だのと論じてこれこそ真理の証文だのと申す者達はみな、実相を知らぬだけなのである。
一念三千とはゆえに、一心一命の時々の境界と知る事であり、例えばその一念によりて殺人を犯した悪人とて、絶対の悪人と言う事では無く、その悪人はその行為によってのみそれとなったのであり、その悪人の心、命には十界で示すように
仏の心もあれば、
菩薩の心、
天神の心もあると教えるのである。
例えばその者が親や家族を心から思いやりゆく時
人の心にも
天の心にも
仏の心にもなり
例えばまたその者が飢え苦しむ子供達の相を写真や映像で見た時
それを悲れみ
思いやり
涙を流して助けたい心となる時はそのまま
人にも
神にも
菩薩にも
仏にも
その一念の境界においてなると示すのである。
この一念と生じても不変とその心が続くのでは無く、
その同じ心の中に
また
修羅の怒りと
戦いの心も
愚痴邪見の畜生の心も、自己中心主義たる貪欲、貪りたる餓鬼の心も、地獄の心も、互具してあると示すのである。
即ちその心とその行為の因縁によりて全てはなると教え、その事実無常の空相、仮相仮諦これを示すのである。
ゆえにこの一念の因縁こそを大切にして正しく生きて、よく一念の仮即空これを知りて、執着する事なく真の道を生きよと教えるのである。しかるにまたそこにおいて全ての人、
全ての命と世界に仏性のあるに、その仏界一味の境界こそ覚め気づきてどんなものも軽んぜる事なく大切に生きる事と知りゆくのが、この一念三千義の肝心にして大切なのである。これこそが一念三千義を知る事なりて、その境界これと示すのであり、ありもしない方便修体の教えをもって界際と区別し分けゆきて、争い論じる種とする者どもこそ、その意味を実と解せない愚かにして悲れな者達と言うのである。
一念三千とはその心の境界を示して、決して分け違えない心を知る事こそ第一に大切にして
「一乗の心」全てを大切にするという心こそ命と示すのである。
しかるに一念三千義はまた、その一念瞬時の念は仮にして、その自性は空にして無常なるを示し、全てはその因縁によって生起生滅し存続するものなるに、その因縁こそをよくと覚めて生きよと教えているのである。
一念三千と申して、界際を別して、やれ二乗だ、
地獄だ、
などと申して論じている方が、言矛盾の相と教えるのである。
一念三千世界と申する者が、一念因縁にして無常。
空を知らずして、
間断なき無間地獄などと申して、間断なき無量劫の苦しみだけの地獄界へ落ちる原因は念仏にあるなどと一方て論じるようでは全く一念三千の意味も知らずして、読めぬ相と言うのである。
日蓮も、
創価学会、
顕正会、
日蓮正宗等の者達もみなそこにおいては盲に等しいと言うのである。
一念三千世界の釈明修体の方便教にして、これをもって唯一の正法の証などと論じて争うような悲れなる無知をさらす事はやめて生きよと教えるのである。
その肝心の心こそ、そこに見るを知れば、争いなどは無くなるのである。
例えば一念万界を摂すると申しても、釈に示すは同じとこれを示すのであり、一字一念一切となすも、万字一念万界と照すと示しても、全てはなると言うのである。
ゆえにただ
一念三千世界、
一念三千世界とこだわりて論じ争う事は全て誤つ事なるに、早くその愚かさに気づき覚めよと教えるのである。
それを申せば申すほど全てが妄語と変わると証するのである。
ゆえにその方便教をして宗門争乱の道具にするような大愚は日蓮宗において、
創価学会においても顕正会においても、以後やめて生きよと教えるのである。
それをやり続ける以上
「日蓮はずっと無智のまま、恥をさらすと知る事である。ゆえに日蓮自身の正しの為、救いの為にも、それをすててその闇をこそ滅し生きよと教えるのである。全て対立ともちいる言説は一乗と反すると心に言い聞かせてその対立こそ全てはすてよと教えるのである。」
知恩
報恩を知るならば、先者ありて我あるを知り、一切大自然万物ありてまた我、生かされるを知れるのである。
ならば先者これをけなしたり軽んじたり卑下なす事は無いのてある。
我ありて世界あるでは無く、世界ありて我のある事を知る事であり、一花一輪をおろそかになす事なく大切になすは当然である。
ましてや先者が道と説くにそれを知るを得れたと言うのであるから。
そこと自らがたとえ超えたとしても、卑下なす事はやめよと言うのである。


太陽の法嗣

大日天光子

合掌。