『破折、一念三千義!』
(その2)
よく聞きなさい!
日蓮門
創価学会
顕正会の人々よ!
あなた達は一念三千釈と申するに、十界互具はなにゆえ百界なると言うなり。
一念の内に十界互具と申するならば仏教の示す道理とは申せるが、
十界×十界イコ一ル、百界が一念の内にあると申するならば、その今の心、即ち一念において、
地獄界が十
餓鬼界が十
畜生界が十
修羅界が十
人間界が十
天界が十
等々と申するに
六道と示しても
これのみをしても地獄が十もあると言っている事になるのである。
各々が十ずつあるに百界と示しているが、十界互具はそれぞれにおいて十界にすぎず、百界などと申すのは数の遊びにすぎないと言うのである。
これを申するあなた達は、一念の地獄界を十も持ちていると言いながら、その地獄の一つ一つを釈さないのである。
同じ地獄をコピ一のように十ずつ持っていると言うのであろうか!
餓鬼界
畜生界
修羅界
人界
天界も十界ずつあると申してその一つ一つを釈さないのである。
その一念の中に人間界がなんで十もあると言うのか考えた事はないのであろう!
ただ言葉の響きに酔って数遊びをしているからである。
十界互具は方便なのであるから、十界互具の釈ですむのであり、百界などとかけて増やす事など必要ないのである!
即ち、その一界一界が単独に独立してあるのでは無くして、一念の内に一つであると示すのに、そのような仮論を生むと知る事である。
ましてや
声聞界が十
縁覚界が十
菩薩界が十
仏界が十とそれぞれあるから合わせて百界あるなどと申している愚かさをよくと考え見る事である。
十界と十界をかける事はそれを申している事と知る事である。
十界互具は十界互具であり、それを百界互具と変える事など必要ない事なのです。
そもそも法華経は一乗開示の経にして、一仏乗教である。
一という仏の命に全てが乗るゆえに一仏乗であり、一即全、全即一の第一義諦の真理の教えがその根底にあり、中心肝心なのである。
一仏乗は一仏界であり、仏界が十界あるなどと言う事そのものが愚論である。
これだけの説明で一念三千義などという数の遊びは崩れる事を知る事である。
仏界が十もあると示せば一仏乗ではなく十仏乗であり一乗とは言えないのである。
これをやたらと使う者達は
一念三千
一念三千と申して、はじめに一念の中に十界互具では無くして、十界を十界ずつ持ちて百界を一つに持つと言っている事となるのである。
一念三千は説示論釈の仮法方便なりて、仮に示して、一々に十界一つを示すのである。
されば一念とはなにか、一念十界互具が正なりて、これをこえてなにゆえに数を増やす必要があるのか!
一切に十界が満ちていて、その時々の一念が変化なすと示すのであり、その変化した相を十界と示するに、その命その心のあり方を教えるものであり、数をかけて百界などと申するものでは無いのである。
それとも一念の内において地獄界より地獄界と十と巡ると言うのですか!
これこそ弁釈
「作弁釈」論理にして、流れの言と作ったものである。
しかるに十如是これも一如なるに、
百界×十如是イコ一ル千如是などと申する事もこれと同じで可笑しき事であり、十如是はあくまで十如是にして一つである。
如是の一は如是の十と等しくなるに
一々は一にして正とはなるのである。
相と性と体と力と作は一であり、
因と縁と果と報と本末究竟は一にして正となるのであり、
千如是などと分けるものではないのであり、増やすものでも無いのである。
例えば一念三千義と申する釈に添いたとすると、如是はまた一々は十如是となるに、
十如是×十如是となりて百如是などとなりゆくのである。
百界と百如是をかけたら、一万如是となるに、このように論と遊ぶを諌めるのである。
ましてやこれを自身の道の目標として仮に用いるならば、
自身においてのみ大切にして用いる事とするべきであり、
これをもって論じ慢じて他とくらべたり争ったり、これを示しているから正法であり、これを示していないから邪法だ悪法だだとか、一念三千の釈を盗んだとか、理の一念三千より事の一念三千の方が上だとか本であるとか鼻をのばして論じ争うための論とはなすなと言うのである。
仏はみな、分けて争わすための法は説かぬと知る事である。
みな当たり前の道理が見えずと酔いしれて、ただただ人の言いた言葉に盲信して迷いていると知る事である。
一仏乗とは
真諦第一義諦
即ち宇宙即我
大覚の一仏大悟を申するに全てを一となすと知る事である。
それを百界の内に仏界が十界あるなどと言う事は、真の一仏乗とは言えないのであり、故に一念三千、一念三千などと申して、
上だの下だの
正だ邪だの
本だ迹だの
正法だ謗法だなどと言うのは皆やめて生きよと言うのである。
あなた達の曼荼羅に地獄界を十、
餓鬼界を十
畜生界を十
修羅界を十
人間界を十
天上界を十などと言うように示しているかよく見る事である。
あなた達の一念三千の数遊びによると、そう示していると言うに等しいのであると創価学会等に示すのであり、ゆえによくよく道理を覚めと言うのである。
十界と申せば十界、十如是と申せば十如是、これが遍満すると言うのであり、百界だの千如是だのとかけあわすのはただの数遊びにすぎないと教えるのである。
また十界とは仏教教導の方便にしてそれに界際をつけて一々違う世界の如く分けること事態も一仏乗の理に反するのである。
神仏の一神大理と至らば、それもまた衆生をして神仏の智見、真理の智見と悟り入らしめんがための慈悲の方便なると知れるのである。
全てを真実の道と覚めかえす事こそ一番の大事とこれを示すのであり、それこそを全ては命に知れと教えるのである。
一仏乗とは、また一界にあらずば一仏乗ではないのである。
一界の中に、ゆえに九界またありて十界と方便で示すのであり、百界と論ずるならば一界一仏乗の理は成立しないのである。
一仏十界衆生処ゆえに一乗と言えるのであり、これのならずば一乗に非ずと言う事になるのである。
そもそも互具とはなんであるか!
これ互いに具えるのであり
互いとは文字に示して
一と一とが入れ違いになって
一から一へ
一から一へとかみ合うさまを示すのであり、
互い互いが交差する相を示すのである。
具とは、そなわる、そなえるにして必要なものをそろえる、
そなえると示すのである。
これともにとも言うに、文字形と示して申せば、たてと巡らして一と開くを示していると知る事である。
即ち全てを巡らして一と開くところみなこれを具えると示すのである。
具はゆえに一切なると示し、互具と申せば、互い互いがこの一切を具えると示すのである。
これ一心一念と申するならば自の体なるに互具と示すも、
ただ十界は十界のみと示すのである。
互いに一つにそれを具えていると示すのであり、さらに衆生と示して互い互いがそれを、それぞれ具えていると示すのである。
なにも自身の一念に十界が十ずつ百界とあると示すのではないのであり
ただ十界一如なるに一仏十界衆生処、
一切遍満なると教えるのである。
一念三千などと争論として遊んで慢じる相こそゆえに、恥ずべき愚かな相と知る事であり、その増上と争いを去らしめるために、これを示すと知る事である。
心とこれを聞く事なり!
「天台非ずして伝教無く、天台、伝教非ずして日蓮これ、その道と生まれるをかなわぬなり。ましてや釈尊無くしては、日蓮なんのその道得られるなり。一無くして二無く、二無くして一切無きは道理なり!分け対立したり、けなしあいたり、慢じたり、傲ったり、争ったりしてはならぬと言うのである!」
南無妙法蓮華経
太陽の法嗣
大日天光子
合掌