破折、一念三千義! 1 | 太陽王法の会

『破折、一念三千義!』  

(その1)


六道とは一切にとって六道遍満であり、十界と申せば一切にとって十界遍満である。

それぞれがそこに十界互具している事なのあり、十界を脱け出て世界が百界あるなどという理は成立しないのである。

十界は十界遍満であり命はそこに暮らすのであり、互具は互いにみなそこの互具を離れては無いのである。

一念三千義と申するも、法と至らす為の方便なりて便法の一法なるに
これをもって正だ、邪だとか、
一念三千の釈が無いから謗法だとか、
正法では無いのだとか申すのも、
またその一念三千義を盗んだとか申するのもみな誤ちである。

一乗仏より示せば、一仏界に乗りて十界なるに、みなみなそこにありて今を生きると示すのである。

理の一念三千と申し、事の一念三千と申して、本門だ迹門だなどと申して分けるのも不思議な頭の持ち主達である。

天台大師である伝教大師最澄は事の一念三千に至らぬにどうのとか
釈尊は理の一念三千で、
事の一念三千を示す日蓮の方が本仏であるとか!

どっちが上だ下だと論じる事もまた不思議な事である。

理とは道にして真理なるに、これがなにゆえ事より劣るなどと言うのであろうか!

理とは文字で
「王」の「里」
と示すに一切なると示すのであり、
王とは玉にして法性真理を示すに、この法性真理の命を離れての事に、
なんの真実が生まれるであろうか!

王とはまた天地人一如にして、三身
「法身、報身、応身」
三諦
「仮諦、空諦、中諦」
一如なるに、
里と示して
日と連ね合わせる事を示すのである。

それを正しく命になすに王とはなるのであり日、即ち太陽日輪と連ねて一如となさずして、真の理はなせないのである。

全ての理はみなここよりなるのであるから。

即ち理とは道にして真理なるに、
道の理り、
真実道理の事を示すのであり、理とはゆえに一切なりて全ての道をば示すのである。

「理」無くして道無く
「理」無くして真実無く
「理」定まらずして道は立たぬと言うのである。

その理と正しく一つになるに、事もまた正しく成立すると知る事である。

事と申するは、
ことがら、
出来事、
行為行いを示すに、それが正しく理にそって行われてこそ道と立つとは知るべきである。

事とはまた一つと整え連ねるという意ありて、一如と整え連ねるところこそが理とは示すのであり、即ち理に合わせて事と整えるに、
その事柄、
出来事、
行為、
行いが正しくなるのである。

理無くしてゆえに事はならないと示すのであり、理を下と外して事を論じる事こそ愚かな事と言うのである。

これ当たり前の道理にして、
理の一念三千だの、事の一念三千だのと分けて、
理の一念三千を迹門などと申して、
事の一念三千を本門などと言い、
釈尊は理の一念三千であるから迹仏であり、
日蓮は事の一念三千を顕したから本門本仏であるなどと申するのは、
はなはだ道理と反するものと示すのである。

理の中にこそ事はそのままなるのであり理無くして正しい事はならぬに、理こそが事の親と言えるのである。

全ては理に添ってこそ正しくなり、正しく覚め至ると言うのである。

事と修するも、理と至るが為になしゆくのであり
これを申て本門、
迹門などと論じて、日蓮が伝教大師最澄や、
天台大師より上だとか、
釈迦が迹仏であり日蓮がその本仏であるから上だとか申する者が沢山おり、
それを、さも悟りきったように大言で教える者のいる
「池田大作氏」事は真おかしな事と言うのである。

特にそれを文上や
新聞誌上、
辞典、
本等で広く示して宣伝する創価学会等の人々よ!

そのようなつまらぬ事にうつつをぬかさず、正しく自ら達が心の扉を開いて真理の妙と正しく至りなさい。

さればそのような言論の大愚を知れるのである。

一念三千、
一念三千とただ口先のみで論じていても真実は得られぬ事を知る事である。

そもそも、その一念三千とは仮法方便なりて、道と導く為の仮論とこれを示すのである。

それ仮論なるも、
真実に添いて至らしめんとなすに、
これを仮法方便なると示すのである。

ゆえに大切になして申するのはよいけれども、これを出鱈目に用いて上だ下だ、本だ迹だ、
顕したの顕さないだのと論じ争い慢じる事は大愚な事であり、それこそ道理の見えぬ相と言うのである。

道とはみな争い争わすために生みゆくものではないのであるから、調和こそが真と覚めて、法とたがえて争う事はやめる事である。

論は論を呼び、その論を対立争いに使うならば、みな論と破れる事を教えるのである。

ゆえにそんな愚かな論争より脱けて、正しく皆で至れる道となしなさい。

これは創価学会、
特に池田大作氏にたいして教える事と知る事である。

続く


太陽の法嗣

大日天光子

合掌