一念三千義と無間地獄の矛盾! | 太陽王法の会

『一念三千義と無間地獄の矛盾!』  


よいかな!
よく真実こそを学びなさい。
一念三千義と申するのは釈の方便にして、これをして全てと申するのはおかしな事である。

私はここに日蓮の申するところの一念三千義と無間地獄と申するところの矛盾を示してその誤ちを教えるのである。

一念三千義を破ればそのままそこにその誤ちは正せれど、それは後に示すとして、ここでは無間地獄と申して念仏を常に攻撃するに、その言の矛盾をここに示すとする。

一念三千とは衆生のおこす一念の心に三千の諸法を具足する事を示し一念とは瞬間瞬間、極微の生命を言い三千とは現象世界の全てを言うと示して、すなわち衆生の生命「一念」に、現象世界「三千」の全てが収まる事を示すのである。

そしてその瞬時の一念に十界すなわち、地獄界
餓鬼界
畜生界
修羅界
人界
天界
声聞界
縁覚界
菩薩界
仏界の十界が具っておると示して、これを更に十界互具と示して、それぞれの界にまた十界が具っているのであると示して百界と説いているのである。

ここにおいて一心一念に十界が互具しているという論を、一心一念に百界すなわち、各々世界が十界づつ具っていると論じるのである。

そもそも一心一念によりてその生命に具わる十界がその心と念によって生まれると申するならば、それは衆生を導く為の1つの方便の法と示すのである。

ここにおいても単なる方便の釈を出る事はないなれども、それはさておき十界は十界のみにして、衆生の一心一念にあるのは百界などとは申さないのである。

されば
一心一念
地獄が十界
修羅が十界
畜生が十界等々あるなどとなりゆくのである。

すなわち、百界とは言のあやとは言うのである。

すなわち一念に地獄の心と今ある人にも、仏界とかくかくの世界がある事を示すのであり、ゆえに十界は一界を出でぬと示すのである。

されば今問題とするのは、
一念の中にこの十界、百界ありと申し、瞬間瞬間、極微の一瞬にこれがあると示して、心の持ち方で一瞬一瞬に生命が変わる相をそこに示しているのである。

さればその一方において、念仏をする事は無間地獄と落ちる原因と申するに、その無間地獄の意と見ずれば、八大地獄の一つで無間大城とも言い、無間は梵語で阿鼻と言う。

故に
阿鼻地獄
大阿鼻地獄
阿鼻大城とも言いて間断なく大苦を受けるのでこの名があると示すのである。

一方において衆生全ての一心一念の一瞬一瞬の中に十界が互具していると教えて、更に三千世界があるとも教えていながら、そのもう一方で念仏を唱える人々に対しては一瞬も間断のない地獄のみがあり、その間断のない大苦を受けるなどと示しているのである。

衆生の一念の中に
十界がありて
更に百界と広げ
三千世界があると広げていながら、
念仏申する者にのみ間断なくただ無間の地獄、
大苦無間があると言っている矛盾をそこに知る事である。

この論がなにゆえに正法正論として成り立つであろうか。

衆生一人一人の命に分け隔てはないのであり
一心は一心、
一念は一念、
三千世界は三千世界間断のない無量劫の地獄世界など成立せぬと知る事である。

これは一方を成立させれば一方は無くなり、互いに矛盾の釈、矛盾の言と言うのである。

一念三千世界を認めれば無間地獄は成立せず、
無間地獄を認めれば、一念三千世界は成立せずと知る事である。

十界互具という一つの釈をとりてもこれと同じと言うのであり、地獄の一念の中にも仏界と九界があり全て心とこれを教えるのである。

さればなにゆえに間断なき大苦無間世界「地獄」が成り立つと言うのであろうか!

阿弥陀仏と言う仏の名前を唱えて地獄へ落ちるならば、なんの仏と言えるであろうか!

仏の御名を唱えて無間地獄へ落ちるなどと、どこの愚か者が考え言うのか常識を大きくはずれていると知る事である。

天上天下の全てを見渡しても、これ程の妄語は無いのであり、よくものの道理を考えゆく事である。

宗教を知らぬ人でも、道と生きゆきて一花一輪に手を合わせて祈り感謝するのは正しき心である。

これ道理にして、その花を踏みつけて歩く人より正しき人と言うのである。

道端の仏像、地蔵に手を合わせるのもその心のあらわれなのであり、その心を地獄と申して脅す人などいないのである。

ましてや大慈大悲広大無比なる阿弥陀仏は釈迦如来も讃えて讃えて尽きないのであり、その御名と讃えて手を合わせて念仏なすに、
その合掌する心、
祈る心たるその一念がなんで無間の地獄の原因、無間地獄の相と言えるだろうか!

当たり前に考えて見る事である。

それで間断なき大苦の地獄へ落ちると申するならば、日蓮宗の柱とする教理たる一念三千義も崩れるのである。

これ衆生一切の命において一念三千世界と申するに、なんで無間地獄がそこに成立するか!

よくと考えて見る事である。

これをゆえに
大矛盾の大妄語、
大邪義と言うのである。

一念三千義が成るなら、無間地獄は無いと示すのであり、
無間地獄が成るなら一念三千義は成立しないのであり、
よくよく当たり前の道理を知る事である。

念仏無間地獄の因縁などと申すのはゆえにここにおいても、天上天下第一なる大妄語と示すのである


みな道理も見ずして自宗の利益のみを、はかるにかくなる邪言を平気で言うのである。

日蓮はゆえに一法をいただきて逆に自己に迷いて、慢じて迷うと示すのである。

その迷者の日蓮を全ての本仏などと申して他をけなし軽んじて生きるは真、愚かな事と知る事である。

本仏の境涯はそのような小器に非ずと言うのである。

仏法は道理なりと申するに、よくよく道理を知れと言うのである。

すなわち正しく当たり前を知らずして
自讚毀他、
自宗自讚、
自宗自我、
自己中心主義となしゆくに、対立ばかりを生むと示すのである。

対立こそ無智の大因なりて、そこにおいて正等覚の悟りは無いと知る事である。

日蓮は道途上にして今だ成仏の境界になど至らぬ一沙聞、一菩薩とゆえに示すのである。

「仏に素直に手を合わせられる人と、仏を踏みつけてゆく人」とを見てどちらが正しいか、正しい道か!

これも道理と知る事である。

合掌するとは一つになる事にしてまた対立を無くした相とも知る事である。

真理正道において、対立争乱と論じて自宗のみ尊しと慢じ、他宗と分けて害するは全て正とならぬと知る事である。

そのような迷者に真の勝利とはならないのである。

調和こそ全てなるに早く覚めかえれと言うのである。  

「和こそ万道の義なり」
「和こそ万宗の極なり」
「和こそ万命の真実なり」

「対立こそ大迷の因なり」
「対立こそ万命の迷なり」
「和してよく一を知る人をこそ如来と言うのである」


オ一ン・アビラウンケン

太陽の法嗣

大日天光子

合掌