真実義をして五時教、五味教の誤ちを正す! 3 | 太陽王法の会

『真実義をして五時教、五味教の誤ちを正す!』

(その3)    


妙、発心位、
法、修行位、
蓮、菩提位、
華、入涅槃位、
経、方便究竟位
と示すと、これは、阿字の五転にして全てを生じる大正法と代わってゆけるのです。

全てが道と正しく一つになせなくては真の釈もなせない事を知る事です。

日蓮もまた、そこと至りていないゆえにただ法華法華と一に迷いて大の一を忘れる事になってしまったのでしょう。

一と二を忘れて山の頂へいっぺんに至ると思うならばとても愚かな事です。

山の頂と至らすに山そのものの仏が、一より法を示すと知る事です。

その山を法身の山と示して、その山が華厳を始めに示すのです。

ゆえに五時の初めにして一なるに、五味の一なる生味とも示すのです。

一より入りて一と帰るに円教は正しく一となりゆくのです。

しかるに仏はまた涅槃経にて
一すなわち仏より
「従い」
十二部経を出し
十二部経より
修多羅を出し
修多羅より
方等経を出し
方等経より
般若波羅蜜を出し、般若波羅蜜より
大涅槃これを出しゆくと示すのです。

この一なる道は、
みな仏より従い出ると申するのです。

これは五時と五味に一如と知る事です。

五字題目に促せば妙が法を出し、
法が蓮を生じ、
蓮が華を生じて
華が経を生じると知る事なのです。

五智に合わせて示せば、
妙、
法界体性智「因」法、
大円鏡智「行」
蓮、
平等性智「証」
華、
妙観察智「入」
経、
成所作智「方便究竟」と示せるのです。

成所作智とは一切の諦なるに、ここにおいては一切が経となりゆくのです。

十如是と映せば
妙「相」
法「性」
蓮「体」
華「力」
経「作」
となり
妙「因」
法「縁」
蓮「果」
華「報」
経「本末究竟」
となるのです。

これらは、
みな大日如来の示する大真言、
阿毘羅吽欠の五字
「一切満足智」
と開くに、そこと合わせて一つになりゆくのです。

すなわち
摩訶毘盧遮那、
大日如来という太陽「阿毘羅吽欠」
が昇るに地涌の蓮華が開くのと同じなのです。

阿字の五転は、
阿毘羅吽欠となして一切薩般若となすに、大日如来こそまた妙法蓮華経の五字の親と証するのです。

正道を理解できずして自我独善と迷いた勝手な注釈の誤ちはゆえに全て正して、捨てて生きよと教えるのです。

日蓮の誤ちは、
その弟子等が正し、それを超えて皆正しく一と至れと私は言うのです。

日蓮の五智五仏の五字に配する注釈は道とたがえており悉く誤つ事を知る事です。

それを継承して仏教哲学大辞典などに示し教える創価学会等は、その本自体が誤ちの原因となるに正すか、破り棄てよと示すのです。

日蓮の四箇の格言などというのは、その誤ちの最たるものゆえに、それを基とした書物辞典等はゆえに悉く灰にして今後人々を誤またさぬためにも心と正せと言うのです。

皆々、
真の一乗を知らぬゆえに大きくそこに迷うのです。

神仏の計らいは衆生の思いを遥かに超えているのです。

宗門を分けて対立せず早く覚めて一と和せよと言うのです。

念仏も
禅も
大法大正法にして、神道も正法、
真言も大正法にしてキリストも、
イスラ一ムも、
極み至る所は悉く一とはなると知る事です。

これを成せる者こそが、真の一乗大覚者と知る事です。

法華題目をして正法と持する子達はよくその誤ちを心と受けとめて素直に道と帰りなさい!

日蓮自身が道と開きたと言えども、日蓮も今だ一菩薩のゆえに一乗の真実、
第一義諦の全き如来とは至りていないと知る事です。

ゆえに一切不軽菩薩となりて、一切と対しての不軽の心、

「我、一切を軽んぜず」

皆、道とある大切な命ゆえに南無妙法蓮華経と手を合わせるなり、とゆう心こそを他愛大切にして、
その正道へと帰る事です。

七百数十年の対立、その日蓮宗の一番の誤ち大迷こそを絶ちきって、それを正すのはその弟子達の務めにして責任であると知りて、日蓮の為にも妙法蓮華経の真実の為にも、
また、対立してきた念仏、
真言、
禅、
等々の為にも、
一乗の大理と完成するにも、その誤ちを正して、真の相へと帰り大調和への道を歩み真実の、南無妙法蓮華経こそを一人一人の命に実現して、その一乗の命とかえれと言うのです。

それこそが妙法と生きる者の務めとこれを教えるのである。


オ一ン・サッダルマプンダリキャ・ス一トラ

南無妙法蓮華経

合掌

太陽の法嗣

大日天光子