創価学会への手紙! 2 | 太陽王法の会

創価学会への手紙!

(その2)続き


ヒンズ一教のアウムの原理も一つである。
ユダヤ教のダビデの星は、地よりの三角と天よりの三角を一如と印して、太陽と一如と完成する王の位、印を示すのである。
エホバの神、ヤハウェ神の印たるヤハウェの目も同じである。
太陽の中心に一眼の目を印して、ヤハウェの目とし、神の印とするのであり、太陽一如と至りて全てを一と見る目、すなわち一神の完成こそを示すのであり、古来よりの王法を教え残すのである。
仏陀は、インドにおいて太陽神ビシュヌ神のヘソ、すなわち中心より生まれたと示され、その原理をブラフマ一の原理と言うのであり、太陽たる毘盧遮那、すなわちヴァイロ一チャナ「古来太陽の事を言う」一如と至りた者を示し、釈迦をゆえに月氏と呼び、インドを月氏の国とも示すのである。
印度とは、その度
「彼岸」渡る事を印す国であり、仏達はゆえに全て月輪に姿を示して、はじめの日月一如の成道の形相を示すのである。そして日月一如の明諦と完成して、自身が毘盧遮那と完成して生まれるのが、毘盧遮那遍一切処であり、一切智者、一切薩般若としての大日如来の完成を示すのである。
その修法の体を示すのが円教であり、日一如と咲く蓮華の教えもその一つの教えなのである。
日たる毘盧遮那
「法身」と一如成道して蓮華仏性を開く、それが日蓮の道であり、妙法蓮華経の道である。
そしてその一如一体と完成して自ら大日如来と完成するのが、法華経の結経であり、毘盧遮那遍一切処なのである。
そのゆえに世界全ての王法が手に取るようにわかるのであり、一字一教を見ただけで全を説くのである。
あなた方はその辞典に、三身即一の毘盧遮那仏は久遠元初の自受用身であり、その自受用身は日蓮であると示すのである。
そしてその「日蓮」のみが唯一の本仏であるとまで言いきって他を排しているのである。
毘盧遮那とは一切である。
一切ゆえにあなた方一人一人も本来みな毘盧遮那であり、全てまたそうである。ゆえに、一切は差別なく尊いのであり、不軽なのである。
一切不軽これが
「不軽菩薩」として修行する日蓮の相であり、日蓮の末は不軽菩薩と言う意味なのである。
至りた者、至らぬ者みな本来大日如来であり、そこと至りて成身完成するのがその本来の道なのである。
その道の教えが、十地であり、十波羅蜜多であり、諸々の円教と正法である。
太陽一如の王法をその命に実と験証体得して成道し、そこと修して智智と磨いて自ら太陽と生まれるのが、毘盧遮那遍一切処の完成である。そこにおいてはじめに生まれるのが、

十地
第一地たる歓喜地であり、その成道開眼の歓喜が実と生まれるゆえに、そのまま第二地、離垢地となり、離垢ゆえに
第三地、発光地となってゆくのである。このはじめの歓喜地を知らずして本物は無く歓喜開眼となして「実と眼のウロコを落とす」ゆえに、天の祝福と香油を注がれるのである。
この妙にして他に無い香りに包まれて誕生し、そこより本道の修行に入り一切智に入りゆくのである。
「誕生仏」の印はこのはじめの香油を注がれる相をこそ示すのであり、そこにおいては小さな子供の相の仏であり、その四十年の歩みの後、涅槃会となす仏は
「大仏」となすのであり
小の誕生から
大の仏へと完成し、大仏としての成身を毘盧遮那仏と示すのである。
小なる聖観音が
大きな観音「悟空を手の中で遊ばせる」と至るのもこの理である。
全ての中に正法の教えはあるのであり、どんな経典も、ここと至る道を示しているのであり実と至るのが肝心にして、教学は実と至りてからなすのが道なのである。
至れば全て一道をを知るからであり、その経典のこだわりもいらないのである。法も渡る「彼岸」ための船であり、橋であり渡ってしまえば、その一法にこだわる事は無く全てが一と知れるのである。「同教帰一」実と至らぬから差別がおこり、対立を生むのである。
実と至れば
ア一メン神も
アッラ一神も
ビシュヌ神も
ヤハウェ神も
天照神も
釈迦仏も
阿弥陀仏も
みな一つである。
それが毘盧遮那遍一切処として成身した者の証である。
ゆえに法華題目者に正しくそれを教えて、過去の誤ちを正して真実を示し、一切の対立を捨てなさい!
一切不軽菩薩の心と生まれなさいと言うのである。
私はこのように真実の毘盧遮那
「大日如来」
遍一切処を教えるのであり、ここと真実成道してそれを示すのである。
私をして、あなた方法華者がそれをもちいないならば、法華者と名乗る事をやめる事と言うのです。その道をめざすあなた達が、なにゆえに私を無視できるでしょうか!
蓮華の菩薩たるあなた方が、太陽を否定し、軽んじ、無視して、蓮華が咲きますか。
真の成道がなりますか。
成仏が実と完成できますか。
私はすでに、この世に残すために万教と書き残しています。その全ては、毘盧遮那一切経なのです。すなわち
「大日一切経」
真実の王法たる
「太陽の法」
なのですよ!
その一々も私は私の全てでは無く、一部分であると示すのです。
よいですか!
たとえば愛の一字義を説けば、その形相としての分別の愛を説けば広大無尽となって遍照するのです。
一即全、
全即一の釈となりて無尽なのです。
宗の一字を説いても、宗の本質実体としての大いなる一を示し、その一を全と示して、その大いなる宗の義と一人一人の命を一となして一々の宗義を示して、一なる道へと全てを誘うのです。
一即全、
全即一です。
ゆえに文として残すものなど、その一部分、悟りの一光にすぎないのであり、その一光とて全てを超えているのです。
太陽の無量の光を見て下さい!
その全てを説く事は誰にも不可能です。ゆえに大いなる真理、神、如来は偉大なのです。
そこと一如と
至りて、
王となり
神となり
仏と成ったのが
世界中の太陽王であり
天照であり
ヤハウェ神であり、アッラ一神であり、ビシュヌ神であり、アフラマズタ神であり、
アポロン神であり、アジティヤ神であり阿弥陀仏であり
釈迦仏であり
イエスであり
あらゆる尊師先者達なのです。
真理は一つ、
その一つの幹に一とある枝葉が
仏教であり
キリスト教であり、イスラム教であり、ヒンズ一教であり、ユダヤ教であり、
シ一ク教であり、
道教であり
神道であり
あらゆる宗教であるのです。
その幹に一となって全てを一と知る完成こそ、幹たる真理一如の完成体です。
ゆえに大いなる正法者の証となり、
「救世の法」を説く者たる証となるのです。
太陽たる王としての私の教えが天下全てにかえる時
「正法の光」は蘇生して全ては正しく帰りゆくのです。

『太陽がその時代を心のおもむくままに取る時、全ては完結し一人として成仏しない者はなくなる』のです。

真実
「この私が太陽毘盧遮那としてこの時代を思うように取れば、世界は一つになりて大苦の因縁たる宗教対立はなくなり、世界は一つ」にかえります。

新たな世紀
正法時代の幕開けとなり、
「太陽の時代と真実完成する」のです。

私はいかにしてこれを全てに気づかしめるか、日々心をくだいて暮らしているのです。

毘盧遮那遍一切処を目指して道ゆくあなた達が、この大いなる道の前を閉ざすならば、大逆罪となり、最上の罪人となるとゆえに言いきれるのです。
この私の言葉が今なお理解できないのであるならば、もはや法華者を名乗る資格はありません!
仏者としても失格者です。
ゆえに私を歓喜してもちいてこそ、あなた達は本物になれるのです。
釈迦は、千年間、月々千回祭祀を行う者、神につかえる者に詣で供養するよりも真理成道したる真実の者に一度供養する方が、はるかに功徳果報があると教えます。
されば今の私をもちいる功徳のいかなる大きな事かがわかると思います。
逆に私の道を閉ざし、害い、
悪するならば
大いなる罪人となり
その罪は仏殺しに同じくして
大逆罪となり
末は誤つ事なく悪趣大獄の因となり
苦界に償う事にもなるのです。
ゆえに正しく私をもちいて天下全ての救いと光となす事が最上の功徳への道と言うのです。
布施も供養も道を見てする事です。
私は今、この時において道を成す者なのですから、全ての神仏の御名において正しく聞きなさいと言えるのです。
賢者、
智者たるならば
理解できる訳です。太陽たる
「大日如来」に矢を射つづける大愚は滅して真の正法にこそ帰りなさい。
私に償うとは、その法を天下に示して用いる事であり、それが最上の果報であるとゆえに教えたのです。

「今、天下に応供の境界にある者は誰かも知る事です。」

私はあなたとあなたの信徒のために、
身と
心と
時と
労力と
全てをついやして、正法と真実を与え続けているのです。

その心が理解できない位、闇くなった命ならば、今どんな地位にあっても、意味はありません。

人の世の
地位だの
名誉だの
財だの
勲章だのは全て仮の物です!

その肉体と同じように仮有なるものです。
真実の道、それこそが永遠なるものなのです。
その道をすてて、真実と生まれゆく光を失う事こそ悲しむ事です。
今、一番大切な事をゆえに知る事です。それが真の仏者、宗教人の証となるのですから!
それが生まれゆくための一大事なのですから。

創価学会本部

会長「元」秋谷栄之助殿

名誉会長、池田大作殿


太陽の法嗣

大日天光子

合掌