創価学会への手紙! 1 | 太陽王法の会

『創価学会へのてがみ。池田大作氏、秋谷栄之助氏に宛てた手紙!』  

(その1)


謹啓
正法真実のために、年々月々この命を尽くしている私の教えを法華に住してなにゆえに気づかないのか不思議である。

今の時において真の法華者たるならば、これを聞いて歓喜する事こそ当然のすがたであるに、
なにを迷うかまた、不思議である。

「玄文第七に!」
「三世乃ち殊なれども毘盧遮那一本異らず。百千枝葉同じく一根に趣くが如し」等々云々、当に知るべし!」

今「毘盧遮那とは、即ち久遠元初の自受用身なり!」
「文段集五一三ページ。と法華玄義に説かれる天台集所説の三身即一の毘盧遮那仏は久遠元初の自受用身に他ならないと明かされている。
久遠元初の自受用身とは日蓮大聖人のことをいう。」

「御書法華取要抄三三三ページ。」

【毘盧遮那は梵語で、遍照、光明遍照等と訳す。観普賢菩薩行法経に、
〔釈迦牟尼世尊を毘盧遮那遍一切処と名づけたてまつる。〕其の仏の住処を常寂光と名づく!」
「七0六ページ、とある。」
この普賢観経は法華経の最後の品、いわゆる結経である。】

毘盧遮那
「大日如来」
を真理法界法身の幹とたとえれば、百千万の枝葉有りと言えども同じく一根
「源」
毘盧遮那に趣くが如し、即ち同教帰一であり、帰一大処心を示すのである。

ゆえに、
この世界一切はもともと毘盧遮那仏の法界であり、
法身であるから
それを示して胎蔵界と言い、
その胎内の海を示して
一切薩般若海と言うのである。

『即ち、
胎蔵理は大日如来であり
金剛智も大日如来であり
理智一命の大日如来である。』

そのゆえに
この世界を毘盧の身土と言い
毘盧遮那遍一切処とも言うのである。

大日経を大毘盧遮那成仏神変加持経と言い
大日如来を一切薩般若と言う。

あなた方は日蓮の御書を辞典にして仏教哲学大辞典を刊行している。

その中で大日如来を法界法身仏と認めていながら、
その大日如来を一方ではまた実体のない法身仏にすぎないと妄言を示すのである。

毘盧遮那遍一切処とは釈尊が法華経の結経、
その結びにおいて証明された相である。

すなわち
華厳で法身一如と成道して、
そこより仏の道を歩みて法華一乗を開示示して
法身一如の命を示したのである。

毘盧遮那遍一切処とはその成身完成した「大日如来一如、而二不二」の世界である。

ここにおいて証するのは、
全てが大日如来の世界であり
命であると言う事であり
悟り至りた者も
今だ迷道とある者も全て大日如来一如の尊い命である事を示すのである。

法身の胎内
その内なる命は全て法身一如の命であり、その一々の命はまた内にその命を秘めており、
その命もまた全て大日如来なのである。

大宇宙身としての大日如来と小宇宙身としての衆生一人一人の命も同じ命であり、その大いなる道へと成道成身するのが道なのである。

たとえば、
神の世界と示せば、一神たる命の内なる世界と命は全て一神一如の命なのであるから、
そのまま神であり、神の子である。

一神に即して分別するならば、
多神世界がそこに成立してなんの矛盾も無いのである。

一仏乗とはこの一神乗の理と一であり、法身一如の道と入りてそこに入我我入してはじめの大悟を示すのが華厳経である!

ゆえに東の大寺、
東大寺の大仏、
毘遮那仏を示し残すのである。

東から昇る太陽、
毘盧遮那と一如成身してその光明を一となして自らの法性
「仏性、神性」
を開く!

すなわち、
日を自己の月輪に映しての一如、
如来の慧日を自己の心水に映して一如となす。

これが日月の明であり、大円鏡智である。

ゆえに一切の仏、
菩薩は月輪の中に住してそれを示しているのであり、
これを如来の一切遍知印と言うのである。

そこにおいて大いなる歓喜を得て実とその命を蘇生するからこそ、
東の太陽を示してまた薬師如来とも示すのである。

この一味の理として、それを王法と示して太陽一如と映す命の鏡を示して、
神鏡、
八咫の鏡と示したのが天照大神の相であり、それを王法
「天皇」として残しているのが天皇制である。

仏法の大円鏡智と神道の合わせ鏡の理は一つであり、
その一如成道を実と成して天より香油を注がれた者が王と印されるのである。

キリスト教の
キリストの意
メシアの意は
この油
香油を注がれた者を指すのであり
仏陀は灌頂仏会
「生誕会」
と示して
四月八日に花祭りを残して、
仏陀誕生の義と相を示すのである。

ゆえにその頭頂に五大海の水、
五色の水、
すなわち香油を注ぐのであり、
甘茶と教えて、
甘露アミリタを一如と示しているのである。

王仏の誕生の相である。

その王位の印として、天照は神をその命「神性」と示して、太陽毘盧遮那と一如と至る道を合わせ鏡と教えるのである。

ゆえに古来日本では鏡を命とし、王法の宝器としたのであり、沢山発掘されるのもそのゆえである。

古代ギリシャにおいても、太陽を中心として神々の世界が展開するのであり、エジプトの王法もまた同じである。

ピラミットはその印であり、地より天へ向かっての三角形は、太陽一如の王位の印とするのである。

イスラ一ムのアッラ一神は、
太陽神ド一シャスと一如至りて成道した月神であり、
月神より日月一如を完成
「毘盧遮那遍一切処」したゆえに、
太陽神アッラ一と帰りたのである。

アとは主を示し、
ラ一とは一切世界と一々一切の命を示し、そのア「主」と全ての一如を示して、一切をアッラ一と示すのである。

キリスト教の十字架とて本来太陽の印にして、たての一を時間と示し横の一を空間と示し主たる太陽と自己が一と連なり、遍く横、
空間に光を広げてゆく!

これが太陽真理一如の十字架の相である。

そのアたる主と自己との一如一体の相を「ア一メン」と言うのである。

「アたる主」と
「メンたる自己」との一体それが命に一つに切る「十字」
なのである。

主と聖霊と自己との一体を悟りゆくのが道であり、自らが主一如と完成して生まれゆくのが、毘盧遮那遍一切処としての自己の完成である。

続く。


太陽の法嗣

大日天光子

合掌