釈尊は事の行より至る! | 太陽王法の会

『釈尊は事の行より至る!』


釈尊一代の経経は、ただ文上の理のみに非ず。

その真実は釈尊がその生命を体得なし、それを持して行ずる事の行なのである。

これを人に示しても至らぬ人、至りた事のない人々には難信難解な事なのである。

釈尊、
ブッタガヤ菩提樹下にて命の庫と開きて成道し、そこに大悟を成しとげるとは、真理神秘甚深にして実なる法道を開いた事である。

この命の内と外におこりたる事を人々に語りても理解しがたく、無理と思った釈尊に法を説いてほしいと願ったのが梵天神なのである。

禅定大悟の法とは、実と神秘世界の命達が現じて、また天地大自然をも動かして道と開く事よりおこるのである。

その神秘不可思議の修道と入り修行して実なる開眼、
大悟これを得、
天の祝福を受けて頭頂に香油を注がれる者と生まれるのである。

道の世界と現じて、そこに修し行じて、神々、
天魔天衆等の示す甚深なる神秘の門を行じるのである。

その神秘体験みな真実なる事の行にして、この道の内にありて不退転不動と坐して智慧を広大と修するに、真理の智見と開けゆくのである。

宇宙天地、
雲海山川、
草木大自然が一つとなりて広大無辺の法を開いて験わすのであるが、
人これを聞きても、とても信じる心となせないのが真実なのである。

天衆天魔大軍をもっておしよせ、
その身を責めるも、諸々の世界と見せられ、またゆきて修道と暮らす自分を見るのも、
なすのも、
みな事実となす修行なのである。

その諸々の修道と極めて、天地一如の自己とも至るのであり、六道世界にゆきて眉間の毫光を持って衆生大衆を照らすのも、諸々の菩薩達とであうのも、仏達、神々とであうのも、魔王と法を競うのも、みな精神界において行じる神秘深妙不可思議世界にして、そこと開き成道して至らぬ者達には理解しがたき世界なのである。

内なる神々と開き語るも、地涌と来る菩薩達と語るも、その者以外には聞こえぬ真実なのである。

六神通と申すも、その修道の中でおこる実法修行の諦にして、神と通じてなる神妙なる力なのである。

その修と座して極め、その後にその禅定と出て立ちゆきたのである。

その後もまた内に真理世界の神々と共に一つに暮らし諸々の禅定に入りてゆくのである。

釈尊が常に神々と共にいたと示されるのも、そのゆえの事実なのであり、道は常住して一つに存在していたのである。

この真実も至らぬ者には解せず。

人身の目には見えず聞こえず。

ゆえに信じ難く、
理解し難いと示し、不可説等とも言うのである。

しかるにみな実にして、その命におこりたる事にして、伝教大師最澄はこの一験

「成道」

を得るために六年の修行をせよとまで示し、その後に六年智慧を修せ、学問せよと示すのである。

これは、神秘世界と共に自受証得の修行をまずなしてから、その上で今度は利他の覚行を円満せしめるための智を磨く事を教えているのである。

弘法大師空海は命の庫、自らと成る秘密の庫を開くを第一と教え、自らもはじめに至りた虚空蔵求聞持の法の神秘体験を示しているのである。

法然の神秘体験も、親鸞の神秘体験も、道元の神秘体験も、日蓮の神秘体験も、その法道の中に生まれた事実なのである。

みなその体験を基にして一門一派を築いたのである。

無量義経の示すところもその真実を示すのであり、神秘世界の内になる物語として示しているのであり、一乗仏と一如至りた諸々の仏達を示して教え大いなる命、一乗の開示を示しているのである。

成道のはじめに、
この大いなる命に一如の教道ありて、その修の終わりに大いなる一への誕生がある。

それを毘盧遮那遍一切處たる仏、
大日如来一如の仏の証明という教え

「法華経結経」

に示すのである。

至らぬ者にはとうてい理解できる事ではないゆえに、みな自らそこと開き入りて至れと言うのであり、その修法を示して教え残すのである。

これはよく至りた仏と仏のみがよく知るとも仏は申すのである。

釈尊はゆえに常に神々と共にあり、その身において事としての修行を完成なしたのである。

その禅定に入りてなすところの修法はゆえに実なる身行なのであり、そこにおいて智智の修行を常になしゆきて暮らし、その心、その機根に応じて処々に法を説き、いかにしてこの真実の法道へと導こうか、理解させようかと智慧をしぼったのである。

ゆえに仏法は言葉や文字で修するのではなく、実とその身命と修し、道と開き入る事に真実があり、その修道、すなわち道とであい、道を得て、道と成し、自らの命で体得してゆく実践道なのである。

この神秘真実の道と開く事を秘密の庫と開くと言い、密教とも示しているのである。


太陽の法嗣

大日天光子

合掌