読経、経を読むとは! | 太陽王法の会

『読経、経を読むとは!』  


僧侶、私のもとに来たりて申するなり。

「一経も読めぬくせに何を真と言えるか!」

私は笑みてそれに答えるなり。

「私は真、貴方達の言うところのお経の一経を仏壇にむかいて読んだ事は無い!しかしそれは貴方達の考え行うところのただ読み唱えるだけの一経の事である。」

貴方達は人の作りし像仏、木仏にむかいて漢文の経を唱えて文字と数えているようだけれど、それを読むとは言えないであろう!

私はそのような読み方は知らぬと言うのである。

「貴方達は一経を読むと言っているけれど、ただ声と唱えているだけで実と読む事をなしてはいないのではなかろうか。」


読むとは文字が示すように、
「言と売る」
と書く。

一経の真実義をよく理解し、それをやさしく釈説なして衆生万人にこれを説き教えてこそ、はじめて読む、読めると言うのである。

「言と売るとは広める事」
他へと教え渡せる事。

「売」とは上に
「土」と示し
「土」即ち
「地」において
「命」において広げる事を示すのであり、広く世界に説法なさずとなんの読経と言えるでしょうか。

また、これとなすに「言」言葉をその身と一つに合わせ広げて理解しなくて、真、読むと言えるでしょうか。

「私は、ゆえに只声に出し唱えて自分も、聞く者もわからないような読経はなせないけれど、
この身、
この命に読み、
天地宇宙、
大自然、
万生万物、
万事万象、
万字万語悉くにて、仏の声、
仏の相、
仏の教えを読むと言うのです。」

「即ち私はこの如来胎蔵たる薩般若海において万経無尽を読みて言葉と作して人々に伝えんとしているのですから、人文たる経典を超えて真を読んでいると言うのです。」

「貴方達は宗門と言い宗教と言うが、その宗の一文字を悉く読む事ができますか。これは無尽であり無量であり、全てです。それを教えるのが、宗の教なのではありませんか。例えばまた、法の一文字を正しく広大と読んで説けますか。
明はどうですか。
愛は、慈悲はどうですか。
阿字はどうですか。どんな文字も、語も、その内なる蔵と開いて広大と読んで一義と示して教えるのが、読経ではないのですか。
読経の教とはだれにむかっての教ですか。
木仏ですか、
像仏ですか、
墓石ですか、
教とはその教えんとなす世界を開示し知らしめて、相手をして理解せしめる。
受け取らせる事ですよ。
その為に読むのではないのですか。

「私はゆえに貴方達の言うところの漢文一経これを木仏、像仏にむかって空読みする事はできなくとも、真実なる一経これを広大となして一々、一義経と読み教えると言うのです。」

貴方達はこの当たり前を知らずしては、仏の悟りは至れませんよ。
神の道も至れませんよ。
神の一字を実と読めますか。
仏の一字を実と読めますか。
一文字でも広大にして全とも読めるのですよ。
神教は神という教え。
仏教は仏という教え。
それを開示して知らしめ、相手に理解なさしめられなくして、なんの仏教なのでしょう。
仏は衆生大衆、修行者等にむかって釈なして教えるのです。

それが経なのですよ。
経とは道です!
自分達で声をそろえて競おうが、真の経を読むとは言えないのです。
そのような真実を忘れた慢心が増上して自己の計らいで、

「一経も読めぬくせに!」

などと卑下する言葉と生みゆくのです。

一経とは、
一の経、
一の経とは
一切一義、
一乗、
全てを如来の命と聞く事です。

「貴方達は坊主を読めますか!
一坊の主。
真の一坊一界の主なら仏なのです。
得度と言いますが得度が読めますか!
度すを得る。
彼岸と渡るを得、渡らするを得る!
そしてよく度すを得、得さしめる、これが得度ですよ。」

度とはまた
六波羅蜜
「布施」
「持戒」
「忍辱」
「精進」
「禅定」
「智慧」
であり、
十波羅蜜
「壇」
「戒」
「忍辱」
「精進」
「禅定」
「慧」
「方便」
「願」
「力」
「智」
であり、
これらを得た者ゆえに度すを得る。
得度と言うのですよ。
至彼岸、悟りを得る!
されば得度者とは、そのまま仏陀、
大覚者、
悟りと至りた者、
道を得て完成した人をこそ言うのですよ!
それも知らないで得度者だからと胸を張っているのですか。得度はそのまま仏、ゆえに少なくとも仏を得るために修行して真の得度を完成する事を道としたいものですね!

その名、
その語が実とならずしてそれを言う、名乗るのもおかしな事です。

木仏、
像仏、
墓石に、
自分も実と理解できていない経を読み教えるというのも、
おかしな事です。

仏の方にむかって仏の教えたる経を読み教えるのも間違っていませんか!

向かうのは教えゆく人々の方、命の方なのですから!

「「私がこう示すとその僧侶は迷いの眼を妙と開いて涙を流し、覚めていったのでした。」」

「「宗教、仏教は形式ではない!
道と至る実践道である。
全ての僧侶はそれに気づかなくてはならない!
自分達の命のために早く覚め気づかなくてはならない!」」

私は全ての僧侶、仏教者にこれを声を大にして教えるのである。


太陽の法嗣

大日天光子

合掌