日蓮を一乗本仏などと言うは大妄言! | 太陽王法の会

『日蓮を一乗本仏などと言うは大妄言!』


一仏本仏は、
ただ日蓮であると言い
一法正法を、
ただ題目としての南無妙法蓮華経と言い
一僧聖僧を、
日興と申して、
これのみを三宝と申すれば、
仏教全ての否定である。

何度も示し証するように日蓮自身、
真諦一乗大覚を実となしておらず、
その智智と至りておらぬと言うのである。

すなわち、
真の解脱大悟の解せずして自他の対立に迷う今だ修行中の、菩薩の一人と示すのであり、
それを唯一の本仏などと言うのは大きな誤ちなると言うのである。

私の説く万教一々と即してめ日蓮の智、今だ低くして小さきものと示すのであり、自宗独善の為に、その自利益のみの為に妄語をついて人々を騙し迷わしてはならぬと言うのである。

自を他と別して悪口暴言して邪し争いて歩く者。

これがなんの大悟の仏の境界なり。

仏が自讚毀他の宗教など、どこに作ると言うのか。

仏は対立それをこそやめて正しく調和なす真実を示するに仏とこれを言うのである。

これのなせずして日蓮を一乗本仏などと言えるかよく考える事である。

一乗の意義も知らずしてまた、一切声字の親たる阿字の大義も読めずけなしている至らぬ者が、一切薩般若としての一乗一義の本仏などと申するのは大妄語ゆえにやめて生きよと言うのである。

日蓮が修羅の対立門と説くれば、
それに従う者達も皆そこと至ってしまうのであり、
その対立こそを無くして一切の一を悟る事こそが仏の道と知る事である。

これのならずしては法華一乗の道も永遠にならずと知る事である。

ゆえに対立の迷いをすてて一と調和して仲良く道を共に修せと教えるのである。
真実の一乗とは大日如来の示すが如くして、
ただの一と示す事である。

すなわち
一理至総門、
総門至一理、
一法即万法、
万法即一法、
一門即普門、
普門即一門、
一法遍万法、
万法即一法、
なるとも示すのである。

これ
無上正遍智なりて、無上正等覚にして一義一切処とは示すのである。

摩訶毘盧遮那とは
大日如来にして、
毘盧遮那とは古来より太陽の事を言い、その宇宙天地の事を言うのである。

その
「毘盧遮那遍一切處」とはすなわち、
大日如来の一切處にして太陽法界宇宙としての大いなる命の一切處を示すのである。

釈迦はそこを極め至りたゆえに天衆に讃えられて、

「釈迦牟尼世尊をして毘盧遮那遍一切處と名付けたもう。」

と言われたのである。

法華経の結経をよく見つめ見る事である。

大日如来一印会曼荼羅とはその最極なるを示すのであり、
大曼荼羅は即、
一印会にして、
一印会は即、
大曼荼羅にして一切界と示すのである。

ゆえに真諦一仏乗なると示せるのである。

万宗は悉く一と連なりて一となるに、
但、
法界法身に一とはなると示すのである。

その
「宇宙当体法界法身冥合体得一如を大覚」なすに、
即身成仏なると示すのである。

これ実と至れば
法界が我にして、
我が法界と極まるにただの一と極まるのである。

ゆえにそこにおいて一切を大と乗せるに大乗と言い、
一切薩般若となりてそこに一と生まれると示すのである。

よく一と極めて一と至らずしてはゆえに本仏の境界の完成者とは言えないのであるから、
それをして人々を騙して自宗のみに引き入れて自己の利益をはかることはやめて生きよと言うのである。

大日如来の一乗、
そこと一と至りて、一と生まれた
阿弥陀如来の一乗、釈迦如来の一乗。

みなみな一にして、一相、
一味、
一法なるに、
これを分ける事こそ愚かの極みにして、それを対立させたり、軽かしめたり、
害させしめたりする者が、
一乗の本仏などと言う愚かを知れと言うのである。

一神大悟の境界とてつまるところ
この一乗の境と至りて極まるに、
その全てのゆきつくところを見れず無智の対論と暮らしている相こそ一番と法華の心に反する誤ちこれと知る事である。

よくよく真理の示す心をこそ
全てに聞けと教えるのである。

ゆえに日蓮本仏論などと申して、
自宗の利益のみをなす行為はやめなさい。

自利益ばかり考える宗教はその大きな無明無智から去り離れなさい。

私は全てに真実を教え与える為に生まれこの世にきたのであるから。

真実の智慧にこそ覚めなさい。


合掌

太陽の法嗣

大日天光子