禅の天魔とは迷道の言! | 太陽王法の会

『禅の天魔とは迷道の言!』  


禅宗は
不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏の義を立てているから天魔と申するならば、この大意を正しく証明して正しく示して見る事である。
「経文は月をさす指であり、月(成仏の性)がとらえられれば指には用がない。」としたと申するに、それをもって天魔の法と申するが、これのどこに天魔があるのであろうか!
この甚深の大意もその命ととらえられず、解せずしてなんの真の成道、悟りを得たと言えるであろうか!
至らぬ者の証のゆえにこのような愚かしい言葉を申するのである。
月とはこれ月氏であり、月氏とはこれ、日「真理、大日如来」これを大円鏡と写す鏡にして命これである。
真理光明を映す自然法爾、本然自然の法性、本性の命これである。
日月一如にしての明諦これと覚せば自性そこにおのずから輝くのであり、自己の闇の中に輝く法性の月と覚せば悟りは自己の上に輝くのである。
その命の開覚こそが仏法の肝心にして、万教万典もまたそこより開くのである。よいかな!
月とは闇としての自己の命の中に輝く法性、仏性、菩提心であり、真理としての命である。
煩悩の中に輝く菩提法性、無智無明の中に輝く光明の法性、この月たる法性をとらえて自己のものとして開覚実となすならば当然、人の説いた教え、そこと開き示して悟り入らしめようとする経典は必要なくなる事も当然である。
自ら法華経を体認したならばその経文などいらないであろう。
自分の命に知るならば自分で説けるからである。
自分が真成道して大悟したならば、万経は自分で説けるのであり、そのある経文もただそこと至らしめるためにあると知れるのである。
ただ真実至らぬ者のみが文中教学の中にのみ沈むのである。釈迦が自己の月ととらえ大悟して、経経に依ったであろうか!
自ら思惟し、観察し、観想し、自ら教えを説いたのである。それが真、成道大覚した者の証である。仏教を文中教学ととらえてその一文を小器と読みて勝手に計らって論じているのが人である。
そのような者には生涯真実のところはわからず、道を見る事はできないのである。
仏法は体認の法であり、験証実得の法である。
その真の成道のゆえに悟りもそこにあるのである。
その道を実と開いて自らの月をとらえて自己のものとして、闇を照らせるようになれば、経典はみなそこに一つと知れるのであり、こだわる事など無いのである。
自己の上に修し励みて一切智と開くのが道にしてそれこそが真の覚者への道と言えるのである。
人の借り物では真を得る事はできないのであり、そこと至る道を学ぶために仮にそれを必要とする事があるのである。
まずは自ら至る事、自らの法性たる月を得て真理一如と入道すること、これが一番の大切と言うのである。
至れば万経も自己の一命に尽きると知るのである。
自己の法性、仏性の月をとらえられずして、文、教学にのみ上面の知識を得ても真の道は知りえず、悟りもまたわからないのである。
釈迦の成道も解せず、真の命もつかめないのである。
日月の明諦は一切如来の示す遍智にして、仏法の最たる肝心これと知る事である。
すなわちこの大意実と至りてその真実を命に開かば、自らが禅定大覚成道なした釈尊と一と至るに、そこに全ては開くと知る事である。
そこにおいてこそ、真の境地冥合の歓喜地も実と得られ、天水香油も実と注がれ、六道修行もまた知れるのである。
真の奇瑞も実と得て大いなる開眼も実と成ると教えるのである。
これはゆえに難信難解にして文や言葉の外と言うのであり、ただ至りた者のみがこれを解すと言うのである。
法華経の開経の言葉をよくかみしめて実を知れともまた言うのである。
ただの物語ではなく、実と成道してその命の上に験証するのが仏法なると知る事である。
そこと至れば一切世界は悉く経と化するに、経文に依らずともその命で実と至ると教えるのである。釈尊成道なして大悟するに、文に依りて至るに非ずして、禅定なして実とその身命に開き至りて悟りとなすを知る事である。
そのゆえにそこにおいて遍く法と見じたのである。
それが甚深の法にして、神秘不可思議の法にして、妙法不思議の法とも示すのである。
すなわちそれは、禅定に依りて命そのものを開く事と知る事である。
この真意を示して本道と示すに、なにも知らず解せずして禅、天魔の法などと愚かな事を言うのである。
こんなやさしい事さえわからずして、なんの成道なした覚者とこれを証明できるか!
よくと考え見よと示すのである。
それこそ至らぬ証にして、至らぬゆえに愚かなる妄語妄言これをなすと言うのである。
これをゆえに逆に大謗法、大誹謗の言と言うのである。
不立文字とはまたこの命の真実、内証の甚深を実と示するに、文字にては人々に理解できず!
仏の申すと同じように難信難解と示すのである。
釈尊成道の初めの言葉をよく思い出せと言うのである。
それゆえに、かの仏陀とてはじめは説くは無駄と考え、梵天勧請をそこに受けると知る事である。
釈尊でさえこれは衆生には理解できないと考え、説くのをやめんとなしたを知る事である。
これこそが命の妙にして成道の不思議の諦と知る事である。これ真実と至りた者ならば皆知る事であり、ただ至りておらぬ者のみが真実を見失いて迷いの言葉を並べるのである。
ゆえに真の禅定をなして成道し実とその悟りの世界を体験してからそれを語れと言うのである。
道を実と開いて真実の命と開き真の成道をなせば、一切経もそこと一つに開くに、法の真実のところは文字や言葉では解せないゆえに不立文字とも示すのである。
文字と立てたければまず禅定と入り開いてその命の上に験証実得してから無限と立てよと言うのである。
文字によりてその上面を頭でなでて知るのではなく、命に依りてその真実を命そのものに知れと教えるのである。
教外別伝とは、文字そのものを離れた命そのものの教えを示し、顕教の外にして内となる密甚深の真実の命、その実法こそを開き至れと教えるのである。
すなわち、あらわしめている文、教えの別なる命の内奥の真実と至るをそこに教えるのであり、例えば、一文字の顕の中におさまる宇宙、密広大の実相、一切密密と至るにはそこと深く入り至らねば道はならぬと言うのである。
ゆえに禅定にて仏陀の相にならい、そこと深く算入してその命でこそ実と至れと教えるのである。
実と成道開覚なせばそのまま智智光明と開けて、広大とそこに実と生まれると知る事である。
一切世界が一となりてそのままに薩般若の蔵と変わりて一切経と変わるのであり、八万四千経もただそこに一つと成りゆくのである。
ゆえにして禅の本道はその命の実相を教えるに、正法をはずれぬ本道にして、正中の正、正法中の正法とこれを証明するのである。
法華経、経文においてもよく一切を空と観じて禅定となす者に対し仏は現じて、実なる経これを説くと示すのである。
これ本、学問ではなくその命の上に真理を現じてそれを説くと示すのであり、これ命経不思議の真実なるに至りた者、そこて開いた者にしか実のところでは解せないのである。
ゆえにそれを実と知り、それと説くもまた至りた者にしか実のところは示せないと言うのである。
日蓮がただ題目に依れと申すのも、そこと至れば八万四千経皆、五字妙法蓮華経と一つと申すのも、教外別伝と申する事と同じなのである。ただそれを正しく理解できないだけと言うのである。
直指人心、自ら法性、内なる仏性これを開くを本義肝心として皆皆教えるに、まずそこと開き至れと教えるのである。
されば自ら至りて自ら開覚なして、成仏なせとこれを示して教えるのである。
禅こそまた正法中の正法、大正法と知る事である。
道元とは、全一元と大覚なすに、一乗大覚をそこに一と示すのであり、みな至らず無智のゆえにそれを解せぬだけと知る事なり。
自らの宗門のみを広めんと欲するがために誤った言をもって他と害うないは、それこそが仏法破壊の大謗法と言えるのである。
はたまたよく行者において、自分が今だ途上の者なるも、神秘世界を命の上に少しばかり開いただけで、自分のみが偉大な者と勘違いしてしまい、よくよく真を失うのである。
それ宗教家に多くして、その至りたゆえの大迷が宗教をたがえて争いたり、争わしたりの間違いを世の中に生んでゆくとは知る事である。
その者等はゆえにみなまだ道途上の迷者にして錯覚者にして、実と大覚した仏陀に非ずと知る事なり。
日蓮もまたその迷いし一人と示すのである。
ゆえに四箇の格言などという妄語迷言に酔うて慢じて毒を出すとは知る事である。
全てその智慧の低くしてたらぬゆえとは知る事である。

「宗教をたがえて自己独善と争うはこれみな大謗法と知る事なり。
破和合僧と知る事なり。真の成道の真を知らずして命道不可思議、密甚深と験証せず、真の大覚と至らぬ者皆これをなしゆき、権欲、独占欲、金欲、財欲、名誉欲等に落ちゆき迷するなり。
ゆえに更に謗を重ねて謗するなり。
ゆえによく真実こそ聞いてそこと開き至れと示すなり。
よく真実こそ覚めて道理と聞き、愚かな言葉にたぶらかされて迷うてならぬと示すなり。」

「四箇の格言こそ大迷中の迷言なり。
大謗法の固まりなり。
その迷音魔笛に踊る衆生を見て魔王のみの喜ぶなり。
争えば争う程、魔王それみて笑うなり。仏は早く覚めと悲れむなり。」


太陽の法嗣

大日天光子

合掌