真言亡国と言うは! | 太陽王法の会

『真言亡国と言うは!』  


声字実相なるがゆえにして真実の言これである。
即ち声字実相の世界悉くこれ真言なのである。
名字即、名字等覚みなこれも真言であり一実一命と覚して名字即妙覚となるのである。
この真実、声字実相たる真言をして、その一々の言の全てを亡国の因縁と申するならば、一念の全て悉くこれ亡国の念となるのである。
この世界の一切は声字「音声言語、文字言語」をして表現し、声字をして念じ、考え、探究し、思い、そして学ぶのである。
念また声字の一ゆえに、その声字真言をして亡国と言えば、ゆえに一念三千世界の一念悉く亡国の因縁と言う事になるのである。
真言の念が亡国ならば、三千世界すでに滅して存在する事これ無きはずである。再度申するが、
「一切の世界何をもって表現するなり、これ即ち声字をもって全て表現するのである。」
一切の名字ゆえにまたそこに一と生まれるのであり、そこに生ずる名字、声字の一切はこれ悉く真言なのである。
されば一切はただ声字真言をもって成り立つのである。
思考するのも、探究するのも、読み書きするのも、語り表現するのも、悉くこれ声字なりて真言である。
ゆえに真言の諸法実相本門の諦をこれ、「阿字」と言うのである。
この
「阿」
こそ一切声字の
「初め」
であり
「親」
であり
「主」
である。
ゆえにこの阿をこそ主と言い、また
「大日如来」
と言い、その
「一切界」と言うのである。
阿字より一切を生じせしめて、音声文字、声字一切となして「吽」とおさめるに智徳究尭となりゆくのである。
その阿の初めより、吽の究尭となすを示して声字とするは全てこれ真言なのである。
即ち阿を転じて、五位、五転となした一切は真言である。
アイウエオの五母音も、アカサタナハマヤラワの十地ア行も一切と連ねる子音もみな真言である。
阿と示す大日如来、即ち太陽光明の一と生まれた世界は悉く真言である。世界と言語と表現と思考と思惟と探究とその全てのあるところ、生まれるところもみな真言である。
阿は大日如来の種子とするところの真言であり、そこから生じた全てが阿字の子にして、全て大日如来一如を示すのであり、世界はただ真言大日薩般若海なのである。
諸法実相悉く声字真言をもって表現するのでありその全ては真言なのである。
その一々の声字実相世界を、もし亡国の法と言うならば声字実相の全て、世界悉く亡国となるのであり一切は存在すら得れないのである。
阿が真言なのであり、これを亡国の法というならば、アカサタナハマヤラワの一切は亡国の法と言う事になるのである。「阿吽」の内なる一切また亡国の法と言っている事になるのである。
名字の悉くが亡国の法ならば、法華題目も、一念三千世界も、その釈経の全てもみな亡国の法となりゆくのである。
薩達磨の妙たる薩はなんであろうか!
真言である。
達磨も真言であり、真言亡国と言うは妙法蓮華経は亡国の法であると言っている事になるのである。全てなにも知らず、阿字の一門大理も知らぬゆえにしてこのような愚かな言をなしゆくのである。
それみな無智ゆえの悲れな相と知る事である。
名字声字実相これを離れて一切のこれ無い事も知らないのである。
一切は声字真言をもって表現するがゆえに全ての念またそこに一味と知る事である。
この真言を極めゆくに、名字等覚、即妙の妙覚がなると知る事である。
一実一味となして一切の対立を離れて、普門万門一実一会と帰するにそこにおいてはじめて無上等正覚、実と覚し証すと言うのである。
ゆえにして四箇の格言と申して示すところの真言亡国などと申するのは、はなはだ暗くして無明、真実のなにも見えない大愚妄者の言葉とこれを証するのである。
真言の名字は真言なりてこれを亡国と申する者達の無智をこそ悲れな相と知る事である。
真言妙覚一実と至るに一文字一切無尽と覚して真を悟れるのであり一文字に一切をおさめて万宗一門と帰一せしめるのも大いなる正法の証となるのである。
ゆえによく真実の世界と道理を見る事で正しくそれを知るべきと言うのである。一念三千世界悉くを自らで亡国などと申する大愚こそ覚める事である。
一念三千これ真言にあらざればこれこそ妄語になってしまうのである。
一念三千はそもそも教体釈明の方便にして、全ての対立こそを離れる事を教えているのであり、一念因縁に依りて妄迷対立となすのであるならばその一念そのまま、妄迷愚痴にして修羅の境界であると言うのである。
自讚毀他は自宗自門の独善独占欲となさんと欲する貪欲、餓鬼の体なるにその一念そのままにその境界となるのである。さればよく道理を知りて四箇の格言こそ大毒大迷の因縁と覚めて、それを破り捨てて正とかえれと言うのである。
一念三千義の方便よくと解して真を知る事も大切だとこれも教えるのである。
四箇の格言と示す教えとそれに依りた一切の釈説釈論は全て明らかな大妄言と言えるのである。
さればそれを正教となして辞書等をつくり示しているのも誤ちであり、それはそのまま大妄典と言えるのである。
創価学会の仏教大辞典などはその典型であり、みな無智の独善、一人よがりの貪欲、独占欲のゆえの大きな誤ちと言えるのである。
ゆえに正法を正しく見て、覚めよと示して一切を正し戒め、導きその迷いより救いゆくと示すのである。

一+一イコール一、仏の一+自己の一イコール一これである。
一+一イコール一はまた、名字等覚これを示すのであり、法の一+自己の一イコール一これである。それを真実正しく知るとはそれそのものと一つとなってしまう事であり、一つとなるがゆえにその知識を得て、智慧を得れるのである。
すなわち一+一イコール一なのである。その一イコール0と知りて無我大我と帰り、その無我大我の0が、0としての一即ち0イコール一、大いなる一と知りて全となすのが無上等正覚これである。
そこにおいては念仏だ、題目だ、真言だなどとの差別も対立も全て無くして、一即全、全即一となりゆく事を知る事である。
これの意が解せたら、真言亡国などと言う無智で愚かな言葉は止める事である。真言とは、真実の言葉を言うのであり、一切の声字を言うのである。
即ち一切は真言と言うのである。
その「阿」が
大日如来であり
太陽であり
その胎蔵界の一切なのである。
この阿の真実、大いなる秘密を知り、極めゆくのが真実の、「阿字観瞑想」と言うのである。

「自宗独善、自己中心の餓鬼貪欲に依りて四箇の格言を生じ、四箇の格言に依りて修羅対立を生じ、無智愚痴たる畜生とまた生じて、修羅畜生に依りて迷苦対立争乱と生じ、そこより処々各各無量の苦しみの因縁を生じる。
日蓮の示する四箇の格言こそ三毒所生の言にしてその因縁これなり。
四箇の格言これに依りて三毒これを得て、その毒に依りて迷苦これを尽きずに得る。
四箇の格言こそ魔王の言これなり。
人々を迷乱と踊らしめる魔笛これなり。捨てよ
捨てよ
三毒所生と悪道の大因これゆえなり。」


太陽の法嗣

大日天光子

合掌