大いなる真実! | 太陽王法の会

『大いなる真実!』  

『日の国の日の法』

を予言は!

『救世の法!』

と示す!

この日の法とは何かと示せば、
全てと答えるのが真の仏陀の智慧である。

宗教とは特別のものか!

如来の答えを示せば全てである。

この証を言葉で示せば広大なる説法として展開し尽きる事はない。

今回は日本国の天皇の法について示そう!

日本神道は元々太陽の法より生まれているのである。

天照大神とは太陽の法と合一し体得体現した人神であり、
その法を嗣いでいるのが日嗣ぎの皇子としての天皇なのである。

天照大神の御神体とは神社にしめすように鏡である。

何ゆえ鏡なのか。

それは一人一人の命の法をそこに教える為である。

それが日本古来よりある、

『合わせ鏡の法』である。



太陽の下に座禅を組み、
その法の瞑想に入り、
その真理を自らの命の上に体現してゆく太陽一如の法である。

太陽の光を自らの命に映してゆく。

即ち、
御魂の鏡に映す王法、
そこに大いなる神秘と真実を体現
してゆく。
自らが太陽の王と誕生する。

それが神道の王法である。

その初代の王、
天照大神は太陽を自らの命に得た者!

そのゆえに太陽を合わせ鏡と映した命を示して御神体を鏡と示すのである。

天照と示す名の、

「照」

とは、
文字に示すように辺に「日」を示し、
形に「召」と示して、
その輝きを烈火の

「点」

であらわす。

即ち、
日を命と召して輝く命と生まれた者を教えるのである。

神道の太陽神、
日の神の誕生である。

これはお伽話でもなく、
真実の王法の相であり、
そこにおいて大神秘の中に天より香水、香油を頭頂に注がれ、
大いなる真理と至り、
王位を与えられたのである。

古来王をして頭頂に油を注がれた者と教え、
その最たる人をして

「救世主」

「メシア」

と名付けまた

「キリスト」

とも

「仏陀」

とも教えるのである。

仏達が月輪の中に自らの命を示しているのも、
仏界では

『大円鏡智』

と教える月鏡の法の相である。

月は太陽、
日の光を映して輝く、
真理、


『日』

の光を自らの命に映す一体の法。

これも神道の合わせ鏡の法と一つである。

明王の

『明』

とは、
日と月を一と合わせた相をそのまま示して、
日一如と生まれた月たる命ゆえに明王と生まれるのである。

月を古来、
命の相と教えるために、
月の台と示して

『胎』

月の蔵と示して

『臓』

と示し、
人の身体に月辺を示してそれの大意を秘めて教えるのである。

その天照の末である天皇は古来、
その王法をひき嗣ぐ者。

日嗣ぎを言うのであり、
その王法は現在は忘れられて形式だけが残っているのである。

天の皇帝、
天皇は本来この法を自らの命に体得体現してゆかねばならないのである。

太陽王としての天皇は、
賢処の間と入りて鏡の前に座し、
こもって、
天皇霊を自らの命に宿し、
その王法を引き継ぎ、
そのゆえに天皇と生まれて、
高御座の坐につくのである。

天皇が太陽ゆえに皇太子が天皇とあう儀式として

「朝見の儀」

がある。

これは太陽と至る皇太子の道をそこに教えているのであり、ゆえに皇太子を日嗣ぎの皇子と言うのである。

全て形では無く、
真実としてなされなければならない王法の儀式、
誕生への道を教えるのである。

日本神道でこの真実を教え、
指導できる者は一人としていないであろう。

皆、
王法の真実を忘れ、形だけの世界になっているのが現状である。

古来王の印とは、
玉を得た者、
太陽一如の法と至らずして王とは言わないのである。

古代ピラミット王もまたこの王法をして王となったのであり、
ピラミットはその王法と至る形をそこに残して教えているのである。

太陽を自らの命に一如と得る。

ピラミットの形はその命を示すゆえに、そこを王の永遠の命の墓と示し教えているのである。

正三角形の印は、
天の太陽と一と生まれる印であり、
それを重ねた形を六亡星と示して、
太陽一如の印とも教えるのであり、
これをダビデの星と示したり、
この印を神の印としたりして教えているのである。

全て真実とその王法と修して体得体現した者を真実の王としたのであり、
この法を偉大なる

『救世の法』

と教えているのである。

神道も形だけになり、
この王法を知る者も修する者もいなくなり、
仏教もまた仏陀の真実の王法を忘れて皆、
好き勝手な事を言っているのである。

月輪に住して闇と照らす命と生まれる。

仏陀はそこから日と生まれて太陽神と生まれる。

それが大日如来の相なのである。

大日如来をマハ一・ヴァイロ一チャナと示す!

本当はヴァイロ-チャナとインドでは言い、
古来、
太陽の事を教えているのである。

釈迦仏をインドでは月氏と言い、
ブラフマ一の原理によって太陽の中心より生まれたる者。

ビシュヌ神と一体した命と示すのも、
みな同法のゆえなのである。

妙法に依って日輪一如と至り、
自らの仏性としての蓮華を開く、
そしてそこに生まれ得た命が、
自ら経、
教えを説き出す!

これが、
妙法蓮華経の意味であり、
この法を授けた日蓮をその名と付けたのである。

天の(日)、
地の(蓮)華、
その一体が日蓮であり、
妙法蓮華経なのである。

しかるに日蓮は自己の法のみを唯一の王法と考え、
他を全て認めようとせず、
邪教、
悪法と決めつけた、ゆえに真と至れなかったゆえに、
末は不軽菩薩という名を与えて、
末は不軽菩薩の行をするように示し与えたのである。

一切を軽んぜず、
それを自らの修行とせよと与えたのである。

浄土宗の仏である阿弥陀如来は西方浄土の主と示して、
西方の太陽を示して、
太陽一如と納めゆく。

命の仏を示し、
そこに念仏を示し、法然、
親鸞に与えたのである。

全て一法、
それが解らないのは、
誰も実とそこへ至りていないからであり、
その真実が解らないからである。

アッラ一の法も、
キリストの法も、
ユダヤ教のヤハウェの法も、
ヒンズウ教のビシュヌと三神原理の法も、
みな一つである。

四年に一度のオリンピックの形もその教えの一つなのである。

太陽より聖火として鏡をして火「命」を映して、
五輪となして命を創り、
世界を創る形。

そして五色の肌に差別無く一つに神と共に祭りを開き、
平和の中で技を競い合う。

勝者の頭に月桂冠をかぶせるのも、
法の意を教えているのである。

このようにある一々の教えを広大と教えとして説法してゆけるのは、
そこと実と至りた者以外無いのである。

神は全ての中にこのように教えを示して人の世に与えてくれているのである。

その王法と至らしめられる者、
それをメシアと言い、
キリストと言い、
仏陀と言い、
神と生まれる者と言うのである。

太陽の法、
日の法を説けば広大にして無盡と言い、尽きる事がない一の法を説くと示すのである。

世界を一と導く者、それに全てが依れば、
平和はそこに成るのである。

ゆえに偉大なる救世の法の保持者が生まれる事を、
ノストラダムスは最終予言でし、
インドの聖典も示し、
大日経でも示しているのである。

宗教家は自分達がなにをしているか考えるべき時がきたのである。

本道を忘れ、
正法を忘れ、
形だけの中で、
自分達の欲と生活だけに生きている。

今や末法、
全てが正法にかえり、
覚めを得なくしてはならない時である。

私はゆえに、
この天下において私を超えてこの教えを説き、
導ける者はいないと言いきっているのである。

0は0としての一であり、
その一が全てを生じる。

有と申せば無も生じ、
その有無を超越した離言説の坐、
そこに神はある。

仏智はそこと至りて大いなる智と体得する。

それを超える者は天下に無く、
ゆえに無上道を説く者となる。

全てが太陽とその王法に従う、
そこに大いなる者達が誕生し、
新たな時代と出発できるのである。

『太陽の法』の時代はここから始まり大いなる歴史もここからまた始まるのである。

太陽の法嗣

大日天光子

合掌