創造の原理 2 | 太陽王法の会

『創造の原理!』

友よ!
創造の原理と、
その識がなくし
て、この世界は
生まれ得ないの
であるから、
その創造の識た
る、
その創造者の否
定は真に愚かな
事である。

人よ!
汝等自身、
その命の営みの
全てにおいて、
創造の識、
形成の識の無く
して、
なにかを生みえ
るか。

よくと考え、
よくと知りなさ
い。

人において、
そうであるに、
天地宇宙大自然
において違う事
など絶対に無い
のである。

ゆえに人は、
よく道理こそを
見て知る事であ
る。

友よ!
貴方自身が創造
されて、
その創造に、
そうた形成の識
によりて、
その命を形づく
り営みゆくを知
る事である。

形成の識無くし
ては、
その形として生
まれる事もなく
、それを創造し
なくては、
それとならない
のである。

されば、
その識をこそ知
りて、
その命のはじめ
に、
その命を命とし

『創造なした主』
を知れと言うの
である。

ただ、
でたらめに、
その命が勝手に
出来上がって、
そのようになっ
たなどと申する
なら愚かな事で
ある。

全てに愚かない
て、
因無くして果無
く、
創造無くして形
成無く、
形成無くして形
はならないので
ある


即ち、
その識があるに

それと生まれる
のである。

されば、
そのはじめの識
こそは知りて、
人は
よく覚める事で
ある。

全ては、
このように皆、
そのはじめの識
がありてこそ生
まれるのである。

神、
創造主は
そこにおいて明
らかに存在する
と知れるのであ
る。

友よ!
命は、
みなそれぞれに
おいて識心があ
るのである。

それを人の勝手
な計らいで、
はかってはなら
ない。

人は人にあわせ
て全てを決めつ
けて計ろうとす
るから誤つので
ある。

この世界は命の
世界にして、
それぞれにおい
てその識心があ
るなり。

されば、
その命の立場に
立って、
それを正しく見
よと言うのであ
る。  

花には花として
の命の識心があ
り木々には木々
としての命の識
心がある。

この天地の命に
おいて識心の無
いものは存在し
ないと知り、
全てを大切にな
して生きるべき
である。  

この天地宇宙大
自然に大いなる
識心あり。

その大いなる道
と生みゆく大い
なる命。

その識心に、
この世界の原理
を見よ。

道を開けば、
その大いなる世
界が、
そのまま神秘偉
大なる導きを、
なすと教えるな
り。

人は、
その識界の偉大
さを気づく事で
ある。

友よ!
太陽と一つにな
って見れば、
太陽の慈悲慈愛
に歓喜するので
ある。

この父と語るゆ
えに大いなる歓
びこれと変わる
のである。

その実の導きを
受けて大説法と
聞けば、
光の命と生まれ
るのである。

この妙不可思議
の真実は実と体
験し至らずして
真のところは理
解出来ないので
ある。

人は、
これを語りても
信じられぬゆえ
に、
道が見えず、
道が成らないの
である。

太陽に愛される
歓びは、
ただそこと至り
た者のみが得れ
るものにして、
境地と教えるな
り。  

真理成道なせば

天地大自然がそ
のまま大いなる
教体と変わるの
である。

そこに、
おこりくる神秘
の数々は、
まことに偉大に
して不可思議で
ある。

全てが導きとな
って大きく動き

一切が一つに導
きくれるのであ
る。

ここにも大いな
る命、
真理の偉大があ
らわれるのであ
る。

これも実と至り
開かずしては、
人には難信難解
と示すのである


ただ実と至りた
者のみが、
その偉大真実を
実と体得認証す
ると知る事であ
る。

『太陽の法』の
偉大なる真実は、
ゆえにその命を
道と入れて道を
見て知り、
その命で至れと
教えるのである


ゆえに、
みな全て我が元
に集いて実践せ
よと言うのであ
る。

真実の悟りとは
その実践修行に
よって得るもの
と、
ゆえに常に教え
ると知る事なり



太陽の法嗣

大日天光子

合掌

オ一ン・アビラウン
ケン