創造の原理 1 | 太陽王法の会

『創造の原理と、その神の存在!』  

友よ!
花が花自身を創造するだろうか。

例えば、
蓮華が蓮華自身を、
菊が菊自身を、
バラがバラ自身を、自ら創造できるであろうか。

できないのである。

友よ!
例えば、
鳥が鳥自身を、
犬が犬自身を、
猫が猫自身を、
はじめに見つめて創造したのであろうか。

そのような事は出来ないのである。

友よ!
人が人自身を人として自らにおいて創造できるであろうか。

出来ないのである。

友よ!
全ておいて、
その
それぞれの命が、
その命自身を創造したのであろうか。

違うであろう。

されば、人よ!
よく考える事である。

それぞれの命は、
誰によって創造されたのであろうか。

よいかな、友よ!

その
形あるものは全て、
その形と形成する識の無くして、
それと生まれる事は無いのである。

その形と形成する識があるゆえに、
それぞれの形となって調うのである。

されば、
その形成識は、
その創造する識の無くしては生じる事も無いのである。

創造識がありて、
形成識がありて、
全て、
その命の形となって生まれるのである。

友よ!
これは
道理である。

されば、
その創造識は、
創造する者がなくして生まれぬ事もまた道理である。

因無くして果なく、原因無くして結果は無いのである。

全て、
創造した者があるにそれぞれが形となって生まれたのである。

友よ!
何も無いところからは絶対に、
なにも生じないのである。

形ある整った命が、ただでたらめに生じる事は無いのである。

それを、
それと
形成するには、
その形でなすところの形成識のありて、その形成識は、
それを創造する
識が無くしては
絶対に生まれえ
ないのである。

されば、
その創造識は、
それを創造する者が無くしては、
また絶対に生ぜぬのである。

人が人自身を人として創造し形づくり、
人と生まれきたなどという事も、
絶対に無いのは当然である。

されば、
この世界の全てを、
このように見て、
そこにある
大いなる識、
大いなる命を
知りなさい。

友よ!
地、
水、
火、
風、
空の
五大元素によって、
その因縁によって、それぞれの命と生まれると言うも、
ただ五大が集まっても各各の命と整えてそれを形づくる事はできないのである。

そこに形づくる
識があるに、
それぞれが、
そこに生まれる
のである。

これは
当然にして
当たり前の事である。

その形づくる識は、創造を親として生じるものである。

これのなくしては命の形は成らない。

されば、
その創造の識は
みないずこより来たのであろうか。

友よ!
そこに神を見よ
と言うのである。

これが
創造の原理なりて、
その神の存在を示すのである。

友よ!
人の生活にもちいる色々の物を見よ。

その物として
人の用いる物は、
人自身がその意識で創造したのであり、それによって形づくり生み出したのである。

この
営みにおいて
創造を全くせずして、
それをそれと生み出し得るであろうか。

絶対できないのである。

それは全て、
その創造した人が無くして生まれる事は無いのである。

その創造者の
識より生まれて、
それを形と成して
作し、
全ては生まれ出ると知る事である。

されば、友よ!
木々や、
花々や、
全ての命は勝手に生まれ出てきたのであろうか。

ただ、
でたらめに生ま
れたのならば、
あのような美しく整った各々の花となりえたであろうか。

全ての命を見よ!

天地大自然にある
全ての営みを見よ。

その全てが、
そこにあるのは、
創造の原理が
あるゆえに、
それは、
それとなると知
る事である。

されば、
その創造の識に
おいては創造者
が無くしては、
絶対に生まれぬ
事も知る事である。

人が物を創造し
て作るように、
その天地大自然
と命の全ても、
創造の原理、
創造の識がありてこそ生じるものと言うのである。

されば、
その創造主の存在無くしては生まれぬ事も知る事である。

その創造主を、
ゆえに大いなる
命と言い、
神とこれを示す
のである。

即ち人よ!
この世界は、
その大いなる命
の世界にして、
識の世界にこそ
真があるを知る
事である。

友よ!
その鳥が、
その鳥自身を自らではじめに創造して生じたのではない。

友よ!
その花が花自身を自らで、
はじめに創造して生じたのでは無い。

友よ!
その人が
人自身の命を
自らで、
はじめに創造し
て生じたのでは
ないのである。

それを、
それとして形づくる創造があって全て、それをそれと生じせしめたのである。

さればその創造は、それを創造した識によりて生じた事は当然の事である。

この大いなる識こそ人は全てに見よと言うのである。

されば神の存在は、そこに知れるのである。  

友よ!
この世界の全て
において、
みなそれ自身が
それと創造し、
生まれたと言う
のであろうか……
そうではない。

例えば花が花と、
それぞれの種類
に分けて美しく
形を整え、
その形に突然発生したと言うのであろいか。

そのような事は絶対無いのである。

全て、
それをそれと形づくり生みなした、
創造の識がありて生まれきたのである。
友よ!
卵が先か、
鶏が先かでは無い。

全て識が先である。

それを
それと生み形成
する識。

それを
それと創造した
識ありて、
それはそれと
生まれてそれと
なると知る事で
ある。

種子と花においても種子と果実においても、
これはみな同じである。

この識の世界、
大いなる命の世界こそ人は早く気づきなさい。

大いなる神も、
そこに純然と存在すると知れるのである。

友よ!
言葉も、
文字も、
全て創造者があってこそ生まれるなり。

全てにおいて創造無くして生まれ得るであろうか。

人よ!
自らの命の上に
見よ。

その上で、
天地宇宙大自然
の一切に、
これを見てみな
さい。

この創造の原理と、その創造主を否定するならば、
全ての否定となる事こそ、
当たり前に気づきなさい。

されば、
そこにおいて神
の存在否定は、
一番愚かな事と
気づけるのであ
る。

友よ!
汝、
なにも考えないで、白い紙に美しく形の整った命を描けるであろうか。

でたらめに書いてそのように美しく書けるであろうか。

汝、その識をして創造し、
考え、
形づくり、
正しく描くゆえに、それはなるのである。

全てにおいて、
これと同じである。

この世界の全ては、その創造の識によりて生まれ来たのである。

されば、
その全てにおいて、それの創造者が無くしては生ぜぬ事も知る事である。

この識をして成る創造の原理の世界こそ人は気づく事である。

されば、
神の存在を覚め、
否定する事の愚かしさに気づくなり。

因無くして果無く、原因無くして結果は全てに無いのである。

なにも無いところからは、
なにも生ぜぬ事を知る事である。

それが、
それとして生まれるのは全て、
生みゆく者のあるゆえである。

例えば友よ!
夢とて、
生みゆくものの無くしては生まれる事は無いのである。

生み、
つくりゆく世界
があるゆえに、
それはなると知
る事である。

この当たり前の
道理を人は、
もっとしっかり
と全てにおいて
命に見てみなさ
い。

友よ!
汝等は、
この天地大自然の一切界において、
創造と創造の識
が無くして、
このように、
美しく生む事が
できようか……
出来ないのである。

友よ!
汝、汝自身の命
を命として、
そのように全て形づくり生みつくるに、創造と形成の識
無くして生み作れるであろうか……
作れる訳は無いのである。

友よ!
この全世界において全て、そうである。

されば、
そこにおいて創
造の原理と、
その識界、
大いなる命の世
界こそ、
気づき覚めなさい。

この世界はその
大いなる命の世
界なのであるか
ら。

続く

合掌

太陽の法嗣

大日天光子