布施の心 2 | 太陽王法の会

人々よ!

月は見返りを求めて闇を照らしているであろうか。

人々よ!

太陽は見返りを求めて全てを照らしているであろうか。

人々よ!

日月一命の妙智、
合わせ鏡の命、
大円鏡智を悟りて仏となった仏陀において、
見返りを求めて衆生に光を与えるであろうか。

全ての人々は、
よく考える事である。

仏法者神教者共において、
見返りを要求して法となすのであれば、全て正に非ずと知る事なり。

その救いを金と引き換えにして行うなどという仏教、
神教は無いのである、
布施などと申して、多額の金銭を要求する輩においては、
真の仏教者ら神教者では無いのである。

誰が神、
仏の救いを金と引き換えに商売となすか、
全ては、
よく考えなさい。

布施は自らの心から心で、
その命の為に成すべき行為と知り、
忘れてはならない。    
人々よ!

仏は物もらいの乞食では無いのである。

自ら何かを、
くれなどと要求する事など無いのである。

人々よ!

仏は布施供養において、
真実相手の心において、
それが正しく為されていなければ、
仏は受け取る事をしないのである

たとえば、
なにかと交換条件を考えて、
それをなしたり、
恵んでやるというような傲り高ぶった心で、
それをなしたりしても受け取らないのである。

よく相手に、
その布施供養とは、どんな心においてなすのか聞いた上で、それが道に叶い、
真の布施の心に叶った場合に、
それを
許すのである。

布施する事を喜びとし、
自己の徳行とするものならば、
仏も、
これを進んで受け相手に大いなる功徳を与えるのである。

徳の道に叶い、
心から、
それをなしたいという心を聞けば、
仏はそこにおいて、それを許して受けるのである。

人々よ!

ここにおいて知らなくてはならないのは、
布施供養が相手の心からのものであり、徳に叶うからこそ仏も、
それを受け取りて、相手の命そのものに大いなる功徳を積ませてあげるのである。

布施した者は、
その功徳によって仏の元に生まれ、
天を得る有資格者となれるのである。

この徳にかなわない布施供養は一鉢の飯さえ受け取らないのが仏である。

仏は物もらいの乞食では無いのである。

たとえば托鉢においても、
相手が自らの徳行において施与するものを受けてまわるものにして、
自らの方から要求するものでも、
乞うものでも無いのである。

たとえばまた、
仏が鉢を持ちて托鉢し食事を受ける時、相手が徳の心で自ら進んでなす事なく、

『貴方は何故、
自ら田畑を耕やかして働き、
自ら作らないのか等々と申して責め、
仏が、
それに対して答えたあとになって、
それを施与しようとしても、
仏は、
もはやそれを捨てて受ける事は無いのである。』

仏は自らの命を耕し育て完成し、
他の命を耕やかし育て、
真実の命へと生まれせしめる者であり、救い取る者であり、道をなし、
他をして為さしめ、そこと至らしめる者であり、
命にとって一番の道を成す者である。

相手の心からの徳行として、
それが喜ばれてなされるからこそ、
その者の徳の為、
生まれの為、
道の為、
命の為に、
仏は、
その徳の布施を受け取るのである。

神の心もまた、
それは同じである。

仏法者、
神教者、
宗教家においては、よくこの心を知る事である。

されば布施の金額を自ら示して要求したり、
不当な布施を強要したりするような事は全て、
仏教者、
神教者、
宗教者にあるまじき相と知る事である。

全ての人々も、
この布施の心を仏の心から学び取りて、高額な布施を相手の方から要求されたり、
騙されたりしてはならない。

そのような者達は全て、
仏の道に反し、
神の道に反する者達なるに、
そのような者達を、仏教者、
神教者とは思わず、またそのような者を、
仏教、
神教、
宗教とは思うてはならない。

自らの命の為に自らで進んで、
なしゆく徳行としての布施供養こそが、その命の生まれの為、
道の為に生きたものとなって巡り還ると言う事を、
決して忘れてはならない。

仏は物もらいでは無いから、
自ら要求して物を乞う事など無いのである。

ましてや自ら金額を定めて布施を要求するような事もしないのである。

また交換や取引をするが如くに法を商売の道具とする事なども無いのである。

これは当たり前の事であり、
どこにその救いを金で売るような、
仏、
神、
宗教者がいるであろうか。

霊がついているなどと申して脅しつつ、そのお祓いと救いをやってやるから、
除霊料を何百万布施しなさい。

そうしないと大変な事になるなどという神、
仏、
宗教者があるならば、
全て真の仏教者、
神教者に非ずして、ただの詐欺師と知る事です。

真の仏教者、
神教者、
宗教者なれば、
この心を決して忘れてはならない。

真の除霊は、
その命の為、
道の為にするものにして、
商売ではなく、
ましてや人々を悪する為にあるものではない。

される者は、
その自らの心と、
行いこそを正し、
またその家の心、
行いこそを正しめ、よく供養し、
自らの心で布施し、供養する心を大切にしなさい。

金の額で、
それがあるのでは無いと知り、
心、
命こそを大切としなさい。

その自らの命の為に自らの、
できる布施をして徳を積むのであるならば、
道に叶うのである。

神、
仏を食い物にして悪徳商売となす者は、末に大いなる罰が実と生まれて、
悪趣地獄に落ち生まれるは必定なると知る事なり。

真理の世界と成道しておらず、
知らず、
その実世界が見ている事も知らないで、そのような事をなすから、
その者達こそ大愚の見本と言うのである。

神仏の法を金で売って商売とし、
詐欺となして地獄を買うほどの愚かは他になきとは早く気づきなさい。

人々よ!

よく考えなさい。

仏と仏の法、
神と神の法において、
その救いを金で売るような仏や神がおるだろうか。

救ってやるから何百万出しなさいなどという仏や神がいるであろうか。

神や仏を金儲けの道具にして商売する仏教者、
神教者は全て真実の道に非ずと知る事です。

真の仏教者、
神教者に自ら布施を要求強要して、
騙し、
救いを商売にするような者は一人も無きと知る事です。

全て、
インチキ宗教家、
詐欺師と知る事です。

真の神、
仏より、
その法力をいただいている者ならば、
神や仏の存在がある事を実と知る者達なるに、
そのような真似は絶対せぬと知る事です。

ゆえに全ての人々は、
そのようなインチキ宗教家や、
悪魔、
詐欺師に騙されてはならない。

また人自身、
神、
仏とその世界に対して、
金で救いを買うとか、
買えるとか、
金で取引交換しようなどとの傲った心は決して持ってはならない。

人の、
その無知の心が道を誤やまたすに、
正しい教えこそ全ては、
その命に得て、
正しく生まれゆきなさいと教えるのである。    

布施の悟り無き仏も神も無く、
布施の悟り無き仏教者、
神教者ならば、
真の仏教者、
神教者ではなく、
仏、
神の使いでも無い。

そのような者に本当の神力は無いのである。

そのような者に布施しても、
魔道悪趣を得て苦なる世界に生まれると知りなさい。

続く…


合掌

太陽の法嗣

大日天光子