高齢者の健康について考えてみたい。

主に賃労働や年金によって生活を営んでいる方が対象となる。健康診断の数値から生活指導を受けるようになるのは40代になってからだ。食事、ストレス、飲酒、喫煙、肥満、運動不足を要因とした生活習慣の見直しを迫られる。

「おしゃることはごもっとも」少し気になりつつ不調を自覚する訳ではない。指摘された数値は「酒の肴」であり同じ仲間がいる安心感から見直しは後回しとなる。健康診断の指導に強制力はない。努力義務といったソフトな感じだ。数年指導が続くと病院宛の紹介状が手元に届く。概ね高血圧や肝機能あたりから服薬生活が始まる。心筋梗塞や脳梗塞、糖尿病の合併症から問答無用の場合もある。いづれにしても還暦を迎えるころには「処方薬のデザート」を習慣するようになる。それでも「自分は大丈夫」と自己暗示する。それが自然で、楽観主義は一番の健康維持なのかもしれない。

 

高齢者の疾病を生活習慣病と同類する傾向もある。「怠惰な生活のつけがまわった」自己責任として、疾病が罪に対する罰であるような風紀も依然としてある。単純な優生思想であり弱者排除の論理だ。こういった思考停止の論理は文明の衰退でしかない。

老人になれば個人差はあれ疾病に罹患することはあたりまえだ。寿命が延びれば患者も疾病の数も増える。50年前は70代で概ね余命を終えた。認知症も寝たきりも少なかった。今は余命を終える最多年齢が男で88歳、女で92歳となっている。中間値(約半数が余命を終える)でも男で83歳、女で87歳だ。

人生100年というふわふわした話ではない。つまり男の場合なら83歳になっても同級生の半数は存命している。余命を終える最多年齢は88歳になる。ここまで寿命があると考えていい。長生きできる生活環境だから疾病が長期化するのは必然だ。

 

還暦を過ぎて延長雇用・定年制廃止で働き続けるも、疾病が原因で仕事をリタイアする。健康診断で指導をうけ医師の処方で服薬を続けながら頑張ってきたのに。そして仕事のリタイアは本格的な闘病生活への切り替えとなる。これは悲劇としか言いようがない。何のための人生だったのかと自問するが答えは見たくも聞きたくもないだろう。

問題はこれからだ、前述した中間値まで余命があれば10数年、最多年齢ならばプラス5年は闘病生活を覚悟することになる。治療をすれども元に戻ることはない。

余命が続く限り闘病生活も続く。だから医療費を圧迫するといった飛躍する話は論外だ。基本は健康診断にある。なぜ疾病に罹患しながらも働き続けなければならないのか。

長くなるので明日に続けたい。

病気の発症原因というのは分かるはずもない。タバコを指摘する意見もある。地元の総合病院でも東邦大佐倉病院でも一番最初に聞かれたのは「タバコを吸ってますか」「もう40年ほど吸っていません」「お酒は」「γ-GTP15です」その先の質問はなかった。何となく喫煙者や大酒呑みが罹患する病気というイメージがあるようだ。

ちなみにタバコ諸悪説はあらゆる病気を網羅している。患者にダメなやつという烙印を押すことで、医療従事者側に心理的優位(マウント)というかイニシアチブを取られてしまう。この質問で喫煙者や毎日飲酒する中高年は患者ではなく下僕となる。

眼科の治療について触れておきたい。最初の治療は硝子体注射だ。事前予告なし「注射しましょう。6万円ほど掛かりますが大丈夫ですか。」まな板の上の鯉。そして眼球に「ズブッ」と注射をする。日帰り治療。1週間後にもう一方の目。3か月間に計6回の硝子体注射。薬は「加齢黄斑変性」で使われる新生血管を抑制する効果がある。次の治療は粘着剤(触媒のようなもの)を静脈注射して瞳孔を開いてレーザー照射をしこれ以上の拡大を防ぐというもの。これは1泊の入院治療。なお薬の副作用があるので48時間は太陽光線を浴びることは厳禁。日没後の退院となった。結果は現状維持で今日に至っている。もとに戻ることはできないが結果オーライとなる。ちなみにこの治療は高額療養費制度を申請したので、治療の自己負担は24万円プラス。治療費の総額は軽自動車(新車)に匹敵する。恐ろしいほど高額。

レーザー治療から2年になる。悪くはなっていない。良くもなっていない。再発したら直ぐに治療できるように2か月に1度の通院を続けている。

タバコの有害性についての持論。確実にいえることは個人差はあるとしてもタバコ病(COPD)になる。肺の慢性的な炎症は序の口で、肺が潰れる肺気腫になれば酸欠状態となる。高齢者になって、いざ健康寿命を延ばすために運動を!と、りきんでみても酸欠状態の筋肉はプルプルするだけで反応してくれない。寝たきり予備軍と扱われ介護施設でもイニシアチブを取られてしまう。増え続ける厄介な高齢者に、現場が無意識に振り分けるのは必然なこととして受け止めなければ・・・。

高齢者になると体のパーツが壊れてくる。寿命からして自然の流れである。これまでの人生で何度か転機というものがあったが、いよいよ修正できそうもないパーツの不具合がではじめた。これからいろいろな不具合とともに老いていことになる。

いづれ人間のパーツもIPS細胞でアッセンブリ交換という不思議な時代がくるのかも知れないが、峠を越えた私としてはどうやって灰になるのかをゆっくりと考えながら、無理をしない生き方を迎える年齢になった。

どのパーツに不具合が生じたのかというと目である。老眼の話ではない。失明をともなう「緑内障」「加齢黄斑変性」「網膜剥離」という認知度のある病名でもない。「中心性慢性漿液性脈絡膜網膜症(CSC)」という聞いたこともない病名だ。急性で来院した患者は自然治癒する傾向にあるが慢性となると患者しだいという。病状は網膜の中心部にある黄斑の後ろに水が溜まっている。しかも水の出どころが特定できないという厄介な状態になっている。黄斑は文字を認識するためには必修のパーツで、その水が溜まる部分の細胞が壊死している。したがってどんなに矯正しても視力が出ない。矯正して右目は0.1が見えない。左目はギリ0.7である。

具体的な治療は2023年9月から始まった。近隣の総合病院には治療の器具がない「60代で失明というのは・・・ちょっと大変ですね」と最悪の診断通知。「治療方法がない訳ではないのですがどうします?」「やってみます。お願いします」「では紹介状を書きます。この辺りでは千葉大病院と東邦大佐倉病院があるのでどちらにしますか?」ドクターの問合せに、何となく「先生の出身校は?」と尋ねたら「僕は東邦です」というので「では、東邦でお願いします。」というわけで、公共交通機関だけで片道約2時間の通院生活が始まった。

昨日は2か月事の経過観察の通院日であった。駅には公立高校入試二日目ということで受験生が集まっきていた。そんな訳でいつもよりは電車は混雑していた。

少し長くなったので続きは明日に。