昨日の続きだ。問題は健康診断にあるとした。
健康診断の表向きの目的は、早期発見、早期治療となっている。職場では労働安全衛生法に基づき強制力をもって実施している。会社が注視するのは、業務が主な原因となる健康被害にある。業務に関連しない疾病は別扱いだ。
この健康診断にプラスしてメタボ検診が追加された。すでに四半世紀になる。健康増進法が整備され生活習慣病という言葉が浸透した。結果としてサプリメント市場は急拡大した。しかし職場の健康診断の目的は今も変わらない。健康診断に基づく健康増進の対策は求められていない。あくまでも個人の意思に任せている。これからも自己責任でいいのかという問題だ。
一般的な感覚からの発信とする。
職場で定期検診を受けている労働者には疑問があった。健康増進と日常業務とのバランスが難しいということだ。通勤時間も含めれば1日の半分は仕事の時間になる。帰宅ついでにスポーツジムというルーティーンは無理といえる。趣味にスポーツを取り入れても月に1~2回程度。しかも天候に左右される。気が付けば思ったように体がきれないし、求めるハードルも見えない。悲しいことに運動による改善といっても継続しなければ効果が薄いのは承知の事実だ。
生活習慣病の大きな原因は運動不足だ。
「エレベーターを使わずに階段を」と指摘するができるならやっている。休日を増やすとか労働時間を削減する!賃金が同じなら前向きに考えてもいいが、会社の答えは変わらない。なぜできないのかといえば、「労働と切り離して」考えるから無理という結論に落ち着く。
であるならば継続的な運動を労働時間に組み入れることが解決方法となる。従業員の健康を考えている!というなら将来的な人材確保も兼ねて企業は積極的に導入すべきだ。具体的な提案をする訳ではないが、有酸素運動が最も適している。プログラムは多岐にわたるので機会があれば提案していきたい。
政府・厚労省が目標としたのかは不明だが、健康は大きなビジネスになっている。次の四半世紀で生活習慣病という言葉が死語となる時代を目指してほしいものだ。健康診断はサプリメント業界を成長させてきた。次はファーストフードやコンビニ弁当でも健康食がチョイスできるようになるだろう。健康診断が社会とリンクする。企業もオフィスの一画に有酸素運動ゾーンを設けるのがトレンドとなる。そんな社会をイメージしてほしいものだ。
結論に導きたい。
高齢化社会というのは要介護の高齢者が増大するという負のイメージがある。しかし医療が発達し持病の服薬程度で体が動くなら、高齢者も社会の一員としての役割を果たすことができる。体力があり筋力があれば疾病から回復し、余命を自立した生活で過ごすのは可能だ。
私の父親は96歳で余命を終えた。2週間前まで自立した生活をおくっていた。持病をかかえていたが80歳を前にウォーキングを始めた。最初は犬と一緒だった。犬は先に寿命を迎えた。そこでウォーキングシューズではなくランニングシューズを勧めた。足が軽くなった。90歳になりトレッキングポールを持たせた。足取りが軽やかになった。しかし病気知らずではなかった、救急車は6回ほどお世話になった。でも復活して日常に戻った。趣味の旅行も95歳まで続けた。私とは94歳の時に新幹線で仙台・山形の牛タン・芋煮旅行が最後だった。葬儀のあいさつで「私には、こういう生き方はマネできない」といった。
私もスポーツを日常に取り入れている。令和元年には四国遍路を自転車で結願した。63歳であった。その後トレッキングに変更している。スポーツは集中力を持続することができる。体力も極端に落ちない。68歳の時には原付二種のカブで一般道を使って西国33観音巡礼もしてきた。持病はあるが生活習慣病はない。67歳で仕事をリタイアし年金生活は厳しいが不満を発信するのは愚の骨頂だ。身の丈の暮らしをすればよい。
持病はあっても自立して体が動くことは高齢者の余命の過ごし方を左右する。いまさらという要介護予備軍は大勢いる。しかし、このままでは共倒れの高齢化社会という不安がつのるばかりだ。社会保障・介護保険が、かゆいところに手が届くというのは嘘八百で、「自立できなければ生き地獄を見る」と正直に伝えるべきだ。企業としても、そして政府・厚労省も、現役世代からの健康増進を真剣に考えてほしい。介護はカウントダウンがスタートした時で・・・が理想だ。
私のスタイルは極端だ。個人の決意だけでできることではない。しかし運動を軽視してきたことによって、悲惨な末路をたどる同世代が出始めている。この先10年から長ければ20年は余命があると仮定した場合、この人々の人生はこれでよいのか。改めて考えさせられる。