さて、イラン革命後の体制を一部紹介して、政教一元が文明の発展にはプラスにならない一例とした。

 

だからといってトランプ大統領の稚拙な判断が正当化されるわけではない。今回のイラン戦争は今後の世界情勢を不透明にしたのは事実であろう。「9・11」「リーマン」「パンデミック」「ウクライナ戦争」といった、流れを変えた出来事に匹敵する事件であることは間違いない。

 

イランを理解するには、イスラム教の経典も含めて掘り下げて説明する必要があるが、ぼちぼちタイミングをみて展開してみたいと思う。

またイランの「最高指導者」ハメネイ師が爆撃で死亡した。これで体制が転覆するほどイランの聖職者による政治は脆弱ではない。ベネズエラとは全く違う。それは昨日書いた(イランの政治制度)を見れば分かるとおりだ。

また、地政学的な視点から戦争の展開についても容易に想像できるが、軍事についてはズブの素人なので言及は避けることにする。

 

本題を日本における宗教の役割を考えてみようと思う。その前に宗教の起源について触れておく。宗教は文明発祥とともに歩みだした。共同体で対立や摩擦が生じれば共同体の危機になる。そこで規範というルール(例・ハンムラビ法典=罪と罰そして応報刑)が作られた。自然崇拝(恵と禍)と規範で共同体の運命と結束を導くことができた。宗教はその成り立ちから政治(統治)と深い関係にあった。聖書やコーランは、超越した預言者(神の言葉を伝達)の登場が起源であり、釈迦の説法も神秘主義を説くことで、それぞれ暮らしに平安を求めた教えであった。いずれも古代神話の影響を強く受けたものといえる。宗教の原理で言えば対立を扇動する経典ではない。

 

日本でも自然の恵みと禍から八百万の神々への自然崇拝は、信仰を越えた暮らしの一部として組み込まれてきた。自然の恵みを受けなければ共同体は壊滅する。共同体には自然から受ける危機と恐怖が常に存在した。

仏教が日本に伝来したころは、共同体同士の文化交流がすすみ類似する共通言語(琉・日語圏)によって統一国家として成立した時代だ。また大陸との文化交流は統治しやすい国造りの手本として受け入れられだ。そこに仏教が果たした役割は大きかった。

 

宗教はその誕生の起源から政治(統治)システムとして関わっていた。あくまでも単一の共同体が前提である、しかし共同体が拡大し、文化・地域・言語などの多種多様の環境の違いに適合するには限界があった。とうてい一律化とか一枚岩になることは不可能だ。その限界は統治にとっては不都合となる。そして自主的な信仰から強制的な法(罪と罰)の支配へと変化させ、統治と支配の道具となった。

28日の頁で書いたが、戦国乱世を過ぎた江戸時代になり武装解除が徹底したことで、大土地所有の寺社はあれど、地域ごとの共同体の祭事と文化の伝承が主な役割となった。

 

日本に於ける宗教の役割は、江戸時代の姿が一番安定している。宗教は独立性を尊重される代わりに、政治(統治)に直接介入しない。政治も宗教に直接介入しない。

繰り返すが、社会的には地域の共同体の祭事と伝統・文化の伝承が主な役割となり、信徒の信仰心を助け充実した生活の支えとなるように寄り添う、それが現代社会に存在しうる宗教という値打ちである。日本の仏教や神道が生み出している独特の存在と価値観をみれば、宗教が政治参加すると自己矛盾(宗教の限界)から、信徒への強要・抑圧(全体主義)へと暴走する。まさに新興宗教はその未熟さから今でも暴走しがちである。

 

宗教は歴史的にみて、政治(統治)の解決手段とはなりえなかった。社会の対立や矛盾が生じたとき、観念的で排外的な思考の独裁政治の誕生を宗教が支えてきた。宗教には一律化とか一枚岩を正当化しうる思考がどうしても存在する。前述したように、起源は限定的な共同体からスタートしている。解決できない理論であり、政治とは完全に分離することが望ましいということだ。

 

Ps:この間、宗教法人に課税を!という話題が出ている。単純に法人税なのか固定資産税を含む事業収益税なのか中身は不明だ。およそ政権を離脱した公明党=創価学会への充てつけで、宗教界の問題児としての宗教弾圧を扇動する悪質な論理にすぎない。一方で坊主丸儲けという不公平感もある。直接課税は反発も大きい。それならば宗教法人への寄付も所得控除の対象としてみればよいのではないか。お札一枚1000円、御朱印500円この金額から領収書を発行してもらえば、多額のお布施も喜捨も透明化できる。いっそのこと政治団体にも課税すれば、喧嘩両成敗で一件落着ということになる。

昨日、日本時間午後2時半過ぎにアメリカとイスラエルがイランと戦争状態に突入した。今回の戦争は昨年の12日間戦争と比較して、アメリカの作戦規模は大きくなるのは間違いない。しかしこの戦争は、世界中で疑問がでている。アメリカ・イスラエルの国民も、戦争の大義が不明瞭で疑問がでている。ロシアのウクライナ侵攻と同じで大義がない。

 

政治と宗教について昨日書いていたのだが、今回は日本のあり方から少し外れて、イランというタイムスリップしたイスラム教国家の政治システムについて触れてみる。

1979年のイラン革命によって王政が転覆した。このイラン革命は、神学生から大学生、軍隊の若手将校までの政治経験の未熟な学生革命であった。ところが王政時代に多くの政治家が投獄・殺害されていたことから政治指導者が育っていなかった。そこで反体制運動からイラクに亡命していた宗教活動家のホメイニ師が一躍脚光をあびることになる。王政打倒のメッセージを発信したことで、イラクを追放され短期的にフランスに滞在していた師がエールフランスでテヘランに帰国した映像は鮮明に覚えている。

イラン革命は時系列でしっかりとした説明が必要だ。この未熟な学生革命は、聖職者によって政治権力を奪われ、その流れ(政教一元の思想)は中東地域に連鎖する。

 

現在のイランの政治制度から入る。

選挙権は15歳以上の男女すべて。

 

議会(イスラム諮問評議会)は直接選挙。定数200で任期は4年で一院制。立法府となるが法律の施行には「監督者評議会」の承認が必要となる。

 

大統領は直接選挙。任期は4年で2期まで、主な職務は行政府のトップ。安全保障にかかわる外交・防衛政策には権限がない。軍隊の指揮権もなく、条約を批准する権限もない。

 

「専門家会議」は直接選挙。定数は86人、任期は8年。被選挙権は聖職者となる。主な業務は「最高指導者」を任命し弾劾する権限を持つ。

 

「監督者評議会」は、「国家安全評議会」の「最高指導者」がイスラム法学者を6名、同「司法長官」が一般法学者の6名を指名、国会で承認。任期は6年、3年で半数を入れ替え。国会の議決を可否する権限、各直接選挙の立候補者の選択権を持つ。

 

「国家安全保障最高評議会」のトップは「最高指導者」となる。軍隊と司法権を掌握、外交にも直接関与する、国家元首(王政時代のコピー)である。

 

「司法長官」は「最高指導者」が直接任命。「国家安全保障最高評議会」に属し、言論・出版への監視・弾圧が主たる任務。一度は廃止された秘密警察が復活。

 

「功利主義評議会」は「最高指導者」が任命し任期は5年、「国家安全保障最高評議会」に属し、政府機関すべての監督権限をもつ。

以上、概略だ。

 

何が何だかさっぱり分からん。その通りだ。独裁者と聖職者というガチガチの権力構造になっている。それでも意味が分からん。その通りだ。

 

アメリカとの核協議に出席していたアラグチ外相(元駐日大使)には何の権限もない。一方のウィットコフ中東担当特使も、交渉による歩み寄りという権限はない。双方が歩み寄りの許されないテーブルに戦争の大義があるのか。

 

イランは「最高指導者」が基本的にすべての権限を持っている。その実態は政治経験の軽薄な指導者と同じく、臆病で決断できない無能さをさらけ出している。戦争になる当事者は不幸である。たとえ多くの国民がイスラム教徒であっても、現代社会での政教一元は無理という結果がみえている。

 

いまのイランに次なる政治指導者はいるのか。イラン革命の再来ならば、アメリカは中東から完全に撤退する覚悟が必要になる。トランプ大統領のメッセージは無責任で無計画だ。だから世界中で疑問の声が挙がっている。

都市伝説ではなく科学的な論理で書き続けたい。とはいいつつ私も呪文のようなお経「般若心経」を唱えたりする。四国遍路を体験(結願)した多くの巡礼者は般若心経が頭の中にこびりついている。しかし意味は宇宙論を超越した物理学のようで捉えようのないものだ。科学的に立証するのは不可能だ。しかし迷いが生じたときに写経すると癒しを受け取ることができる。非科学的ではあるが、人間の心理的な面では必要だ。これは関わってみなければ理解できないだろう。

宗教を麻薬だと分析したカール・マルクスの時代背景では、教会は支配者であり人々を抑圧し収奪する役割を担っていた。宗教を麻薬としたのは、非科学的な扇動に知識という対抗できる手段を手にできない社会環境があったからだ。今では宗教を研究することは、その誕生した時代背景や歴史を学ぶための材料としては意味がある。

 

交通手段の発展によって文化交流が活発化し、よって人々の価値観は多様化し受け入れられてきた。文明の発展にとっては必要なことだ。この多様化に対するアンチテーゼとして宗教も利用される宿命にある。そんな宗教は人々を囲い込んだ利害団体として社会的影響力を行使している。

政教分離が問われるのは、宗教を利用した利害団体が扇動をして政治を左右させることにある。

宗教の教えは、平安な暮らしを願う各人の心構えである。神の言葉、お釈迦様の教えというのは社会の平安を導いている。政治はそんな「平安な暮らし」を唱える宗教を保護すればよい。宗教が政治に圧力をかけるのは本末転倒だ。

 

日本でいえば、寺院が武装して支配地を拡大し、対立寺院を焼き討ちした平安・鎌倉・室町・安土桃山の時代があった。石山本願寺〔現大阪城〕以降、仏教は武装解除し時の政治の保護のもと人々に定着した。政教分離とは。宗教と政治の関係が逆転すると、厄介な存在になりうることを歴史が証明している。

 

戦後、信仰の自由とともに多くの新興宗教が誕生している。強欲な拝金、妄言で扇動、独裁者思考の教祖、不幸や不安を先祖に転化、似非(エセ)科学を科学と、実にさまざまだ。そして勢力が拡大すると政治を意識して攻めの姿になる。政教分離は宗教の武装解除を意味している。日本だけではない。

 

では、宗教はいかにあるべきか。それは伝統と文化の継承にある。明日に続ける。