ルックバックと花束の話 | 放浪カモメはどこまでも

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暇人の暇人による暇人のための暇ブログ!!

久しぶりにブログを書こうと思う。

ほんと久しぶり、2年近く書いてねぇ。

 

書く内容は最近摂取したコンテンツについて

なんだか書きたくなったから書く。

 

短編漫画の「ルックバック」と

映画の「花束みたいな恋をした」について。

 

先週、一気に2つを見たんです。

馬鹿しましたよ、えぇ…ぐさぐさですわ

 

僕はコンテンツに対して好き嫌いが少なくて

なんでも旨ければええやん素敵やんの

ノンポリでバカ舌のオタクでありますが、

どう美味しかった、ここが気になったことを

考察するのが結構好きです。

 

ここ1~2週間このコンテンツを摂取して

ようやく嚙んで呑み込めたのでその感想を

書いていきたいなーと思います。

 

ネタバレをめちゃめちゃ含んだ感想なので

読んでない人、見てない人は見ないでね。

 

まずは「花束みたいな恋をした」について

 

サブカル好きで孤独感を持った男女が

偶然出会って、お互い共通点が多くて

一気に仲良くなり恋人になるけれど、

環境や価値観のズレが徐々に出てすれ違い、

最後に別れてしまうような、

そんなよくある話なんです。

 

が…

 

インタビューした実体験が

この作品のベースにあるため、

やたらリアルで俳優さんの演技も素敵で、

刺さる人にはめちゃめちゃ刺さるわけです。

 

拗らせ系クソオタクの僕も

ちょいちょいレバーに

良いパンチもらってダメージを負いました。

 

そのキラキラした色鮮やかな、

刺さる人にはぶっ刺さるエピソードの

1つ1つが色んな種類の花のようだなと。

 

そして、それが集まって

花束のようになったのが

この映画の名前の由来かなー

なんて思ったりしました。

 

だからこの映画は、

どの花が自分に合っているかを

色んな人と共有して思い出したり、

相手のことを知ったりすることが

美味しい食べ方なのかな、と思いました。

 

魔法が使えたり、宇宙人が現れたり、

隕石が降ってきたり、奇跡で蘇ったり、

不治の病で余命が一年だったり、

そんなことはなくありふれた

僕たち私たちの物語だと思うんです。

 

大きな物語を楽しむのでなく、

花束の中の一つ一つの花に

それぞれの体験を重ねる事がいいかなと。

 

でも、それを踏まえたうえで

個人的に腑に落ちないところがありました。

 

ここから毒を吐きますので

好きな人は見ないでくだせぇ。

 

 

あっちいってくだせぇ。

 

見ねぇでけろ!

 

 

(もういいかな?)

 

腑に落ちないのは花束の方ですね。

花を束ねた意味というか、全体の構造です。

 

この映画の冒頭は最後のシーンに繋がる

麦と絹が別れたあとの話が描かれますが、

その中でイヤホンの話が出てきます。

 

右と左では聞こえている音が違う話です。

同じような曲を聴いていると思っても

実際はそれぞれ違う。

同じような出来事でも感じることは違う。

 

それは後々の2人の価値観の違いの

暗喩であり伏線でもあるわけなんですが…

 

それを自信ありげに、絹と別れた後に

新しいパートナーに対して麦が言うことがね。

 

すんげー違和感を感じるわけっすわ。

 

演出なのはわかるけどさ、

そのセリフはもともと2人に対して

サブカル系の人が言った

セリフそのものの焼き回しやからさ。

 

物語を通じて会社に入り現実を受け入れて

サブカル系をバッサリ切り捨てた麦が、

別れてからその後に付き合った彼女に

そのセリフを言う意味な…意味不な…

 

誰かの受け売りのサブカル的な言葉を

知った風な、どや顔でいう。

 

喉元過ぎて熱さを

完全に忘れてるやつやん。。

 

というかね、本当に

そのコンテンツや文化が好きならば

 

そんな簡単に

切り捨てられる

ようなもんじゃ

ねーからな。

 

まぁこれは個人的感情成分多めの話ですが。

なんでポップカルチャーでなく

サブカルチャーに固執する理由があるんすよ。

 

その奥の可能性、美しさを知っているから。

その奥の可能性、美しさに魅了されているから。

その奥の可能性、美しさを信じているから。

 

だから、そんな簡単に切り捨てられない。

 

それがわからなくて簡単に捨てれるのは

サブカルを話のタネに使いたいだけの

選民思想のファッションオタクやねん。

(今日一の毒を吐きましたドクロ

 

一般論でなく個人的な意見の話ですけどね。

 

全体を通して見返したときに

冒頭のイヤホンの話の

違和感が凄かったので、

そこは美味しくいただけなかった。

 

でも、このイヤホンは

演出の一部なんだろうけどね。

 

劇中4回くらい出てくるし、

ワイヤレスイヤホンをお互いに

プレゼントした後から

価値観がずれていくしね。

 

イヤホンが一つのキーアイテムなわけで、

冒頭に印象つけたかったんやろね。

 

ただ、あのタイミングとスタンスで言うと

麦は社会に出て価値観が変わって

悩んだ末に成長したように見えて

結局中身は変わってなかったんだなってなる。

 

そんな花束を持った主人公が見えたときに、

あれ…俺これ何見てたんだよ…となって

そこら辺がちょっと勿体なかったな。

 

楽しむポイントは一つ一つの

花であるのはわかっているんだけどね。

 

でも作品を通じて登場人物に

何の変化も無ければ

それは僕の求めるエンタメでは無い。

 

冒頭で描かれた別れてから

新しい相手と出会った麦が言う言葉は

サブカル系の誰かの受け売りの言葉を

自慢げに自分の言葉のように言うのでなく

 

物語を通じて変化して成長した

麦自身の言葉を

言わなければならなかったと思う。

 

それが不細工でも、それが不格好でも。

(いい加減大人になれと言っていた

どの口が言うてんねん、てやつですわ)

 

それこそエンタメが

存在する意義であると思うし

僕はエンタメの人を変える力を信じている、

 

それは創造者の良くなって欲しい

という思いが作品を通じて届くと思うから。

 

この作品の構造を考えていくと、

サブカルが出汁にされているだけに見えて

そこが何か辛かったな…

 

一つ一つの花は綺麗で良かったけれど、

花束としてみた時に、

これはちょっと違うかなと

思って書いた感想でした。

 

作品の好きな人がいたらすんません。

 

もしかしたら、主人公の成長が

視聴者の思い出の感慨の邪魔になるから

あえて描いてないのかもしれないし…

 

そんな色々と考察することも含めて考えたら

良い作品なんだなーと思いました、

 

ちゃんちゃん♪

 

次は「ルックバック」についてですね。

 

こちらも、ごりごりネタバレ含みますので

読んでない人は見ないでくだせぇ。

 

 

 

 

 

(もういいかな・・・)

 

 

まずこの漫画は

ファイアパンチ、チェンソーマンの作者の

藤本タツキ先生の短編漫画です。

 

 

作者の藤本タツキ先生自身を

藤田と京本(合わせて藤本)という

二人のキャラに見立てて、

喜びや葛藤を抱きながら漫画という

一つの文化に人生を捧げていく話です。

 

4回くらい読みましたが、まだ消化できない

なんだか凄そうな雰囲気の漫画でした。

 

書き始めて思いましたが、これについて

まとめられる気がしないので箇条書きします。

 

ルックバックの凄かったところ。

 

・絵がうまい。表情が心を掴む。

 書き込みが凄い。4コマ面白い。

・セリフを使わない描写表現が凄い。

・タイトルの回収が凄い。

・メッセージ性が凄い。

・エンタメに対しての愛が凄い。

 

月並みですが思いつく感じだと

こんなところですね。

 

僕自身、絵は描けないので技術的なことは

わからなくて単純に好みの話になるのですが、

 

普通の漫画のキャラがしないような、

喜怒哀楽の間の微妙な感情を

絵に表しているのが

凄く好き。

 

光の描写や輪郭の線を変えて

キャラの内面のを描いているのが

凄く好き。

 

スケッチブックや参考資料が

増えていく部屋の様子の描写で

努力を表しているのが

凄く好き。

 

キャラにセリフを言わすのでなく

濡れたランドセルを放り出して

びしょ濡れのまま漫画を描くという

衝動に駆られて漫画を描いているのが

凄く好き。

 

バランスボールや椅子に座って

漫画を描いている後ろ姿が

凄く好き。

 

あー、もう全部好きですね。

 

絵に関してはもうそれしか言えねぇ。

色んなテクニックとか

凄い使ってるんだろうけど知らんから

何も言えねぇ。

 

続いてタイトルの上手さですね。

 

これはこじつけようとしたら幾らでもできますが

「作者自身の振り返り」のルックバックと

「背中を見て」の意味のルックバックと

「振り返れ」の意味のルックバック、

3つの意味が主軸としてあるのかなと。

 

他にもルックバックに

漫画の背景の意味があったり、

冒頭と最後の文字をルックバックに足すと

Don’t look back in angerになったりするんだけど

これはオマケみたいなものなのかなと思います。

 

作者自身のルックバックだという理由は

主人公の名前を足すと藤本になることと

出身地が東北で一致していて、

藤本先生自身が学生時代に想像の世界で

7本の漫画を連載していて、

作中でも学生の2人が

7本の漫画を連載していたから。

 

3つくらい一致したら、それはそうでしょ…

 

続いて後ろを見てのルックバックは

4コマに「背中をみて」のタイトルがあり、

その流れで京本のどてらの背中に

書かれたサインを見たから。

 

ちなみにこの京本が書いたと思われる4コマは

藤野自身が書いていて、

4コマ内の藤野の名前の筆跡が

藤野自身の筆跡と同じことから

京本が書いていないことがわかり、

特に過去が変わっていない事がわかる、

 

僕はこれは、その場で藤野の中に

生きた京本を藤野が想像し創造して

自分で書いて物語を作ったんだと思う。

 

この時点で藤野の中に

創造した京本が存在してそれを認めて

藤野が藤本になったんかなと。

 

まぁ、ここらへんは想像なので、知らんけど。。

 

あと冒頭にあった5分くらいで書いたんだ~

の伏線がここに繋がってくるんだなと。

 

3つ目の振り返れなんだけど、

これはメッセージ性が凄いと被ってるかな。

 

まぁ、これは京アニ事件を

モチーフにしていると思うんですよね。

 

状況や加害者の発言が

京アニの事件と酷似していることと

京アニの事件の翌日深夜から

この漫画が公開されているから。

 

これも含めてのルックバックだと

僕は思っています。

 

この凄い熱量の作品を見せられて、

そしてその事件を振り返れと

言われたらそれはもう駄目でした。

 

忘れていた自分が申し訳なくて泣いてしもうた。

 

でも、事件を振り返れという一方で

藤本先生は救いの物語についても描くのです。

 

それは京アニの事件の関係者や

その友人たちの中で

藤野のように思ってしまった人も

いるかもしれない。

 

「私が〇〇したから死んでしまった」と。

 

でも、それを作品は優しく慰めてくれる。

起こってしまったことは

変える事が出来ない。

「あなたは悪くないんだよ」と。

 

そして藤野先生と藤本先生は

物語を作り祈りを捧げます。

 

ここで物語においての祈りとは何なのか?

 

これについては感覚的な話で

説明するのは難しいので

僕の好きな作家の舞城王太郎先生の

作品の中の一節を引用してみようと思います。

 

ちょっと長いけど読んでみてください。

 

愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。それぞれの願いを叶えてほしい。温かい場所で、あるいは涼しい場所で、とにかく心地よい場所で、それぞれの好きな人たちに囲まれて楽しく暮らしてほしい。最大の幸福が空から皆に降り注ぐといい。

 

僕は世界中の全ての人たちが好きだ。名前を知ってる人、知らない人、これから知ることになる人、これからも知らずに終わる人、そういう人たちを皆愛している。なぜならうまくすれば僕とそういう人たちはとても仲良くなれるし、そういう可能性があるということで、僕にとっては皆を愛するに十分なのだ。世界の全ての人々、皆の持つ僕との違いなんてもちろん僕は構わない。人は皆違って当然だ。皆の欠点や失策や間違いについてすら僕は別にどうでもいい。何かの偶然で知り合いになれる、ひょっとしたら友達になれる、もしかすると、お互いにとても大事な存在になれる、そういう可能性があるということで、僕は僕以外の人全員のことが好きなのだ。一人一人、知り合えばさらに、個別に愛することができる。僕たちはたまたまお互いのことを知らないけれど、知り合ったら、うまくすれば、もしかすると、さらに深く強く愛し合えるのだ。僕はだから、皆のために祈る。

 

祈りはそのまま、愛なのだ。

 

祈りも願いも希望も、全てこれからについてこういうことが起こってほしいとおもうことであって、つまり未来への自分の望みを言葉にすることであって、それは反省やら後悔やらとはそもそも視線の方向が違うわけだけど、でも僕はあえて過去のことについても祈る。もう既に起こってしまったことについても、こうなってほしいと願い。希望を持つ。祈りは言葉でできている。言葉というものは全てをつくる。言葉はまさしく神で、奇跡を起こす。過去に起こり、全て終わったことについて、僕達が祈り、願い、希望を持つことも、言葉を用いるゆえに可能になる。

 

過去について祈るとき、言葉は物語になる。人はいろいろな理由で物語を書く。いろいろなことがあって、いろいろなことを祈る。

そして時に小説という形で祈る。この祈りこそが奇跡を起こし、過去について希望を煌めかせる。ひょっとしたら、その願いを実現させることだってできる。

 

物語や小説の中でなら。

 

以上が引用になります。

 

僕はこの小説の中の言葉を

とても大事にしています。

 

その言葉を借りるのであれば

これは藤本先生の祈りなんだなぁと思います。

 

作品を書くことで

誰かを救えるかもしれない。

だから、作品の持つ力を信じて

自分自身も前に進むために私は物語を描く。

 

そんな強い気持ちがひしひしと伝わってきて

なんだか情緒がぐらんぐらんになりました。

 

エンタメの持つ力強さを実感して

今日も一日頑張らなくちゃな…と思いました。

 

以上が「ルックバック」の感想になります。

 

この2作品を見て何か引っかかるんだなぁと

もやもやしてた気持ちを言語化してみました。

 

ようやく自分なりの整理がついたんですが、

主人公に変化が無く視聴者に

依存するエンタメもあれば

未来へ祈りを捧げた

変化を信じるエンタメもあって

色々あってそれが面白いんだなーと。

 

なんかまとまったかわからんけど

これ以上ダラダラ書き続けても

何か生まれる気がしないので、

僕も僕の信じるエンタメをコツコツ

積み上げることにしよう。

 

さーがんばろーかー