昨日、いつもの道とは違うところへ車で向っていた。

じぶんじしんに対して歯がゆい部分があって、気分転換がしたかったのか。

目的地はなかった。

そんなときもある。


気がつくとわたしが通っていた小学校が見えた。

建物は取り壊されている最中だった。


一瞬「ああ、それは見たくない」と思った。

あそこは、普段忘れている子供の頃の思い出が詰まっている場所だったから。

壊されることは知っていたけれど、その現場を見るのは寂しい思いがした。


あの少年時代には何があったのか。

ドキドキ、ワクワクするような幼なごころがあったはずだ。


じぶんの少年時代を描いたフェデリコ・フェリー二監督の「アマルコルド」を

書きたいと思った。



$絶対への接吻あるいは妖精の距離


フェリー二は「カビリアの夜」「道」に続いて3作目の紹介。

彼が15歳のときの故郷イタリアのリミニでの一年間を描いた作品。

様々なエピソードが綴られている。


彼の作品で最も優しくて温かい作品のような気がする。

それは故郷への愛か。

少年時代へのノスタルジアか。



人間が好きでたまらない監督の眼差しを感じる作品。

ほんとうに温かい。


ジュゼッペ・トルナトーレ監督の「ニューシネマパラダイス」も故郷を描いている。

そしてこの作品がアマルコルドから多大な影響を受けていることは間違いない。

広場や学校での出来事は通じている。

何よりもトルナトーレはフェリー二が大好きだから。

考えてみると「マレーナ」にも共通するところがある。


Amarcord





家族の食事のシーン。

映画館での出来事。

タバコ屋の女性とのこと。

ファシストの言動。


フェリー二が映像の魔術師であることを証明している作品でもある。

これほど想像力に溢れた不可思議で美しいシーンが多い作品はめったにあるものではない。

「サテリコン」とは異質な美しさだ。


少年が霧のなかを歩いている。

そこに現れたものはなにか。

イメージの勝利。


あの豪華客船と波のシーン。


$絶対への接吻あるいは妖精の距離



圧巻は雪のなかに孔雀が舞い降りて羽を広げるシーン。

一年という季節を見事に自然や祭りを描いて、あの頃を思い出す

(アマルコルドとは思い出すという意味らしい)


この映画には深い哀愁がある。

それはなぜなのか。


$絶対への接吻あるいは妖精の距離



そこで生きるひとたちのそれぞれの人生を感じさせる。

喜びも苦しみも哀しみも。

彼らの表情の豊かなこと。


フェリー二の作品にはサーカスあるいは、道化が必ずといっていいほど現れる。

人間のもっている哀しさを見つめている、こころ優しいひとかもしれない。

だからフェリー二が大好きなのかもしれない。


二ノ・ロータの音楽が哀愁を帯びていてこころに染みていく。

今年は彼の生誕100年でもある。

二ノ・ロータも思い出してみよう。


わたしの子供の頃の女性への憧れ。

ファーストキスはどうだったろう。

瞳は澄んでいたはずだ。

輝いていただろう。


幼なごころ。

瑞々しい感性。

とらわれないこころ。

そんなこころを持ち続けたい。

また持ち続けているひとは美しいだろう。


わたしは今でも<純粋>という言葉が好きだ。

無垢なものは存在する。



わたしがフェリー二を愛している理由はこんな言葉にもよる。


「人生を愛するためにじぶん自身を発見しなさい。

わたしにとって人生は素晴らしいものである。

そこに悲劇や苦痛があるにしても、わたしは人生が好きだし、

人生を楽しんでいるし、人生に感動している。」


わたしも人生に感動したい。

大粒の涙が流れてくるような感動に。

魂が震えるようなものに。


それは道端の小さな華そのものにもあるということに最近気がついたのかもしれない。