通信18-40 朝っぱらからブラームスのヴァイオリンソナタを聴く | 青藍山研鑽通信

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作曲家太田哲也の創作ノート

 

 

昨日は久しぶりに、以前よくやっていたレッスンというようなものをやった。ブラームスのヴァイオリンソナタをぶら下げた女性がお見えになったんだ。ああ、本当に久しぶりだね、こんなにきちんとした演奏を聴かせていただくのは。自分がそもそも役に立てるのだろうかなどという疑いも忘れて、その綺麗なヴァイオリンの音色に身を委ねた。

 

 

最近では全くの初心者と一緒に勉強する事も厭わない。その代わり、難しい西洋音楽の完成形に触れるようなレッスンをする事など殆どなくなった。最近では、もっぱら基本的な音の出し方、「はい、一緒に音をだしてみましょうね。せえのお」ぷううう、だとか、基本的な譜面の読み方、「この五つの線の一番下にはみ出している串団子みたいな音をドというんですよお」などというようなレッスンをしている。

 

 

そんなレッスンは退屈かって?とんでもない、面白くって堪らないのさ。良い音が出た時の快感、それはどんな場合でも変わらない。尺八の名人、海神道祖は、吹き抜ける風が偶然に鳴らす竹の切り株の音を最高のものだと言われていたそうだが、そういう無垢な音は、むしろ余計なプレッシャーや、愚かしい経験に頼らない初心者の方が出しやすい。

 

 

もう、何年も前の事、初めて子供にピアノのレッスンをしたのは熊本での事だった。相手は当時六歳のそうくんという少年だ。ろくに言葉も通じないような子供に何を言えばいいのか、私は途方に暮れた。とりあえずドレミファソラシドを一通り教え、録音してきたアニメ、鉄腕アトムの音源を渡し、うん、もちろんメロディだけでいいからさ、これ次のレッスンまでに弾けるようになっといて、などといい加減な事を言った。

 

 

次のレッスンの時、そうくんは出鱈目な指使いで、おっ、いいぞいいぞ、どんな指使いだって構うもんか、ともかく音、そいつを捕まえるのさ、元気よく鉄腕アトムのメロディーを弾き出した。途中、はたとメロディーが止まる。「ジェットの限り」の「か」の音が見つからないと言うんだ。眉間に皺を寄せ、何度も首を振りながら、「この音がどこにもないんだよなあ」などと呟きながら、ファやソの音の鍵盤を何度も繰り返し叩く。

 

 

うん、「限り」の「か」の音、実はその音はファのシャープなんだ。その時、そうくんはまだピアノという楽器の白鍵しか知らない。私は少し勿体ぶって、その黒い鍵を使ってもいいんだぜえと囁く。えっ、心底驚いたような顔をしたそうくんは、恐る恐る黒鍵を叩く。失くしてしまった大切  な玩具を見つけ出したかのように、あったあ、と叫び声を上げ、満面の笑みを浮かべた。それから狂ったようにすべての黒鍵を叩きまくる。

 

 

更にその次のレッスンの時、私を出迎えたそうくんは、もどかしいように慌てて捲し立てる。「あのね、どの鍵盤から始めてもアトムのメロディーが弾けるんだよ」。そう言うとピアノの前に座ったそうくんは、いきなり六種類ほどの調で、そのメロディーを弾き出した。嬉しくてたまらなんだ。おお、私だって嬉しい。このガキめ、いきなり調性の壁を飛び越えやがったな、こいつめこいつめとそうくんの頬っぺたを抓ってみるが、そうくん、頬っぺたを抓られたまま、いろんな調でアトムのメロディーを弾くのをやめない。

 

 

その日は、左手で和音を弾く事を教えてみた。とりあえず三和音、ドミソ、ドファラ、ソシレの三つの音を教え、これをアトムのメロディーにくっつけてくるようにと言い渡した。更に更に次のレッスン、そうくんはまたもや眉間に皺を寄せ、東北の民芸玩具あかべこのように何度も首を振りながら、「ジェットの限り」の部分に合う和音がないんだよなあと呟きながら、何度も鍵盤の和音を積み木のように組んでは崩すのを繰り返した。

 

 

そうさ、ちょいと音楽を齧ったばかり大人に説明すると、たちまち尻込みするようなドッペルドミナントという格好良い和音なんだ。さあ、そうくん、君には万能の魔法の鍵、黒鍵があるじゃあないか、そう水を向けるとたちまちその和音を見つけ、得意そうに何度も繰り返す。

 

 

ううん、まいったね、ガキってやつには。その眉間の皺の深さに、何度も捻り続けるその首に、おじさんは音を欲しがるって事の切なさを痛いほど感じ、ああ、音を欲しがる者がどれほど愛おしいものかという事を学んだんだ。うん、おじさんは、実はさ、君の弟子なのかもしれないぜ。

 

 

ああ、良いねえ、朝のしんと釣り合った清潔な時間に、ブラームスのソナタに耳を傾ける。目の前でヴァイオリンを奏でるおねえさんが紡ぎ続ける音は、のびやかでどこまでも綺麗だ。人間とかいうやつのすべてを、思わず肯定しそうになるぐらい綺麗だ。今の私にとっては大いに難しすぎるほどのロジカルさを一杯に湛えた曲、でも、始まって十分もしたら、そうさ、だんだん音が明瞭に聴こえ出してきたんだ。この手の、難しい音楽で、人様の役に立つ事なんてもう二度とないだろうと思っていた私だが、うん、もう一度最初から勉強し直してみたいなどと思い始めたんだ。それでさ、昨日の朝からずっと、そうくんみたいに眉間に皺を寄せてさ、あかべこみたいに何度も何度も首を振り続けているんだ。

 

 

                                       

                       2018. 5. 25.