昨日は近所のスーパーに食材を買いに出掛けた。といっても何も迷う事はない。野菜売り場でその日に安い旬の野菜を買い物籠に放り込むと、それ以外に買う物はすでに決まっている。回る売り場もその順番もいつも通りだ。店内放送では「ごゆっくり買い物をお楽しみ下さい」などというアナウンスが流れているが、もちろん私は、ごゆっくり買い物をお楽しんだりしない。そもそもこんな事の何が楽しいんだなどと思っている。
そんな中、最近変化があった。数十年に渡ってその安値を維持してきた「おかめ納豆」が値上げしたんだ。うん、この値上げに関しては已む無しといったところだろうね。よくこれまで頑張っていらっしゃいましたってなもんだ。でも、一社の値が変わった事で、大いに他社の売値が動いた。
まあ、納豆なんてどれも大して変わらないだろうと、それぞれのラベルに書いてあるさまざまな謳い文句を読む事もなく、値札だけを見て買い物籠に入れた。レジに向かう段になって、ふと買い物籠を覗くと、あれ、何だかいつもと違って何やら明るい色彩が目に飛び込んでくるじゃあないか。
あっ、この納豆、はなかっぱちゃんの絵が描いてあるじゃあないか。隣に座ったももかっぱちゃんがホットドッグを勧めるその姿に目もくれず、納豆かけご飯を手にしたはなかっぱちゃんが笑っている絵だ。ああ、何だか恥ずかしいなあ。でも、レジの順番は目前だ。レジを打っているお姉さん、私の事を「けっ、いい歳してはなかっぱちゃんかよ」などと鼻で笑うんじゃあないだろうか。咄嗟に私はこの納豆を、「ラベルの絵柄で選んだのではありませんよ。単に値段で選んだんですよ」というような顔をしようとしたが、一体どんな顔が、「絵柄で選んだのではありませんよ顔」なのかがわからず、そのままレジを打っていただいた。
いや、別にそんな事はどうでもいいんだ。そんな事よりも、気になるのは買い物中にもずっと流れているBGMだ。スーパーマーケットが嫌いなのは、ずっと買い物をしている間中、流れてくる音楽に耳を晒していなければならないからだ。確実に自分の何かを削り取られている気がしている。
もちろんスーパーマーケットに限った事じゃあないさ。珈琲屋でも散髪屋でも、いや、今は路上ですらも音楽に浸食されているんだ。流れてくる音が私の心とやらを少しずつ削り取ってゆく。ああ、そのうち私の心とかいうやつも、リアス式海岸みたいにいびつな形になってしまうんじゃあないだろうか?いや、実はもうなっているよ。それに気づかないぐらいにじわじわと侵食してくる、それが音の怖ささ。
元々、不快で堪らなかった。このBGMってやつは。でもここ一月ほど、特に苛立ちが酷いんだ。何故かって?もちろんその理由はわかっている。また、昔みたいに大きな曲を書きたいと思い始めたからさ。先月「封印」という自分の旧作の譜面に再会して、ああ、やはり私はこんなものを書くために生まれてきたんだと、そう強く思い始めたからさ。
よく、古い小説などを読んでいると、強い音楽との出会いが描かれた場面を目にする事がある。修道院の中庭で、これまで見た事もないような美しい修道尼が弾くチェンバロの音を耳にして身動きができなくなる・・・、ふと通りかかった教会の窓から鳴り響くパイプオルガンの音に体中の血が逆流する・・・、目の前にいるジプシーが奏でるヴァイオリンの音にこの身を連れさられるような恐怖を感じた・・・。
もちろんいずれもBGMなどというものがない世界でのみ起こりうる事だ。音、それに引き込まれるのは、無意識のうちに音という不思議な物を求めているときだけだ。聖なる音楽も、賎なる音楽も関係ない。ただ、人は音という物を欲しがる。喉が渇くように音に渇き続ける。BGMに晒されるという事は、喉が渇かないように、いつも何かしらが喉に流れ込んでいるというような不気味な状態でいる事なんだ。
実は、週末のライブを終えたら、青藍山に歯の治療に行く。今回は五日間の滞在で二回の治療を受ける予定だ。その間の暇な時間は?うん、新しい作品の構想を練ろうと思っているんだ。かつてはいつもそうしてきた。山の中の仕事場にじっと籠り、静寂というやつに、この音で汚れきった心だとか、体だとか、そういうすべてをざぶざぶと洗い流してもらうんだ。それから五線紙に向かって・・・、ほら、そう思うだけで、もう胸がどきどきと脈打ち出すじゃあないか。久しぶりに静寂に耳を澄ますんだ。何も書かれていない真っ白なカンバスを、画家がじっと見つめるようなもんさ。さあ、私の人生もこれからさって訳だ。
2018. 5. 22.
