漫画家、永島慎二の「フーテン」という作品の一こま、いや、もしかしたら青春残酷物語だったかもしれない、冒頭で主人公が畳にごろりと寝転びながら、アルチュール・ランボーの「高い塔の歌」の一節を口ずさむシーンがある。うん、その訳が良かったんだ。ランボーの詩に関しては、小林秀雄、堀口大学、粟津則夫・・・誰の訳を読んでも何かしら違和感があった。とくに堀口大学の七五調のリズムには軽く眩暈を覚えるほど滑稽な感じがした。
ちなみに音楽評論家の吉田秀和大先生は、中原中也に連れられて小林秀雄の家に遊びに行き、その帰り道で、小林は「地獄の一季」の印税で酒を飲んだ挙句、女を買って性病を貰ってきたので、アルチュール・ランボーにもじって「アルコール・淋病」と呼ばれていたというような与太話を聞かされたそうだ。
その、永島慎二の漫画に引かれたランボーの詩句、一体誰の訳なんだろうかと長い事思っていたんだが、ある時、ふとしたきっかけから、ええっと、そのきっかけは忘れてしまったが、ともかくその訳が金子光晴によるものだと知った。ああ、すとんと空が落ちてくるように合点がいった。
それからしばらく本屋をふらふらと歩きまわり、金子訳のランボー詩集を探したがどこにも見つからない。もしかしたら未発表なのかとも思ったが、いやいや、漫画に引用されるぐらいだからきっとどこかにあるはずだと思い直し、それほど積極的ではなくなったが、古本屋によるたびに、本棚をじろじろと眺める事にしていた。
ようやく見つけたその本は意外なところにあった。古本屋、うん、確か福岡は大名の老舗の古本屋、ほとんどの古本屋がインターネットによる通信販売に切り替えている中、未だに堂々と店舗を構えている入江書店、その店先に置いてあるカゴ、その在庫処分品とも思しき雑本の中に紛れ込んでいた。
手に取って開いてみた挙句、「ああ」っと間抜けな声を上げた、その声が未だに自分の耳の中には残っている。それは随分と昔に、角川書店が出していた、世界の名詞と呼ばれるものをシリーズにしたその中の一冊だったんだ。立派な箱入り。しかもランボーのその巻は何故か真っ赤な箱に入っていた。ふんだんに写真や、何が描かれているのかよくわからない挿絵が盛り込まれていた。その写真ったって、著者の肖像や、生家や、などというようなものじゃあない、一体どこのものだよと訊いてみたくなるような風景写真、お花だとか、お空だとか、お夕暮れだとか、さあ、うっとりしなさいと、甘ったるい感傷を押し付けてくるようなそんなカラー写真が並んでいるんだ。
そんな甘ったるさを剥ぎ取るように、ゆっくりとページを捲ってゆくと、ほら、金子独特の寂しさに彩られたランボーの咆哮が立ち上ってくるじゃあないか。金子訳のランボーを読む。それは薄い面紗の向こうに傷ついた獣を見ているような不思議な体験だった。
そういえば随分と前の事だが、クイズダービーというテレビ番組でお馴染みの篠沢秀夫教授が、「地獄の季節」の新訳を出すというので、週刊誌の取材に応じているのを読んだ事がある。教授の話によると、これまでのランボーの日本語訳は、それが誰のものであれ卑語、俗語、罵倒語、要するに罵るような言葉がまったく理解できていないという事だった。今回の自分の訳では、その点を正確に表現できたというような内容の記事を読んだ私は、わくわくしながら早速書店へと出掛けた。
手に取った本は、ううううん、何やら残念なものだった。なるほどランボーの罵り言葉にはこれほどのヴァリエーションがあるのかと驚いたのだが、一向に詩そのものが頭に入ってこないんだ。詩というもののリズムも速度もまったく掴めていないんじゃあないかと思った。確かに正確なのかもしれないそれらの罵り言葉は、何より篠沢教授自身の声ではないと思った。いっそこれなら翻訳という形ではなく、論文にした方が良かったんじゃあないだろうか。
ともかく何故突然に金子光晴訳のランボー詩集の事を思い出したのかというと、先月、青藍山の仕事部屋に久しぶりに入った時、そこでその本を見つけたからさ。まだ、開いていはいない。今はただその本を開いて十年ぶりに金子訳のランボーと再会する様子を思い浮かべ、胸を熱くするだけだ。
ああ、それにしても篠沢教授の事など突然思い出したもんだから、頭の中では、「せえのお、どん、さらに倍」とかいう大橋巨泉の声がぐるぐるとこだましている。
2018. 5. 19.
