通信18-35 陽炎座を観た | 青藍山研鑽通信

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作曲家太田哲也の創作ノート

 


久々に外で映画を観た。外でといっても映画館でという訳じゃあない。それは図書館さ。市の総合図書館では毎月、何かしら映画の特集を組んで上映しているんだ。とても良心的な値段で観たい作品を観る事ができるという、貧乏人にはとても有難いシステムだ。

 


泉鏡花原作の「陽炎座」を鈴木清順が監督したものを観にいった。以前一度観た。確か1980年代の事だったと思うが、それ以来だ。難解といわれる作品だが、そもそも筋なんかどうでもいいと思っていた。色彩、その鮮やかな色に翻弄されているうちに、あれあれ、映画が終わってしまったぞというのが、数十年前に私が抱いた感想だ。

 


いいねえ。翻弄される。これこそが作品と向き合うことの醍醐味ってもんじゃあないのかね。われわれは何かを確認するために作品に向かう訳じゃあない。ぶちのめされるために映画館の扉を開くのさ。

 


主演の松田優作は三十歳前後だろうか。何か吹っ切れた感じがなかった。作品の中をうろうろしているという感じだ。それに比べて原田芳雄は随分とのびやかに演じているように思えた。作品のテンポから一歩ずつ遅れているような松田優作の演技を観て、とことん生真面目な役者ってのは何かと大変だねえと思った。

 


平日の昼間だというのに客の入りはなかなかだった。といってもご年配の御仁ばかりだ。隣の爺さんは、ずっと貧乏ゆすりをしていたが、それは映画の難解さに対する批判とも思えた。その爺さん、映画が中盤に差し掛かったあたりで憤然と席を立って出て行ってしまった。他にもちらほらと途中で退席する人がいた。

 


うん、鈴木清順といえば、かつては日活のアクションもので一世を風靡した監督だ。エースのジョーこと宍戸錠や、小林旭を起用した派手なアクションものを期待して訪れた老人たちには大いに肩すかしだったのかもしれないね。

 


ともあれ私は大いに楽しんだ。作品のキーワードとして「ほおずき」が繰り返し出てくるのだが、その「ほおずき」の色が、実際の植物の色とも違い、鮮やか過ぎる赤で撮られていて、頭がくらくらした。赤すぎる「ほおずき」、まさに鬼灯のいう文字に相応しい。今?うん、今もくらくらしている。

 


折角だから鈴木清順の大正三部作といわれる三作品の残り二つ、「ツゴイネルワイゼン」、「夢二」もこの機会に観ておこうかとも思う。ああ、これからさらに二回もどきどきするのか。この心臓、大丈夫かね。

 


それにしても総合図書館のスクリーンが、随分小さく感じたんだが、あんなものなのかね。それに形も随分いびつだ。ほとんど正方形に見えない事もない。正方形に近くなると、小さな画面がさらに広がりのないこじんまりとしたものみえるんだが。何かしら遣りようがないのだろうか。

 


そういえば中学校の時、時折学校で映画の観賞会があった。全校生徒を体育館に集め、そこであまり見たくもないような映画を見せられるんだ。何やら説教臭いものが多かった。まあ、それでも授業よりはましだといささか喜んで観ていたんだが、これも何やら画面の縦横の比率が変なんだ。妙に横幅が広かったりした。もちろん当時はヴィデオなどというものは存在しなかったから、映写機というものを持ち込んで、何ミリかはしらない、ともかくフィルムを体育館のステージに下げられた白いスクリーンの映写するのだが、うううん、映写技師が下手くそなんだろうか、妙に縦横のバランスが悪いんだ。

 


普段は抹香臭いものやら、道徳臭がたっぷりただようものやら、うん、ともかく臭い映画ばかり観せられていたわれわれだが、ある時、今日の映画は「いちご白書」だと教師から言われ、おお、立派な劇場映画じゃあないかと胸を躍らせた。期待して体育館に入ったのだが、あれれ、やっぱりスクリーンが変だぞ。おいおい、随分と横に広いじゃあないか。  

 


そのスクリーンの突如現れた主演のキム・ダービー、あの可憐にして一途な美少女のキムが、思い切りチビでデブなんだ。思わず大爆笑が起きた。あの「いちご白書」というコロンビア大学での学生闘争を描いた映画、だが私がその映画について覚えているのは醜く歪んだキム・ダービーのちんちくりんな体躯だけだ。


 


 ところで鈴木清順という監督、絶対ふざけた人だよね。


                                    2018. 5. 17.