通信18-31 少しだけ犬になってみたいと思った | 青藍山研鑽通信

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作曲家太田哲也の創作ノート

 

 

以前、デュオを組んでいたピアニストの相方は、ぼんやりとした顔で座っている事がたびたびあった。私が「おい」と声を掛けると、驚いたような顔で「あっ、何も考えていなかった」と言う。その様子はまるでスリープ状態にあるパソコンが突然作動するかのようだった。その時は、特にこちらもそれについては何も考えず、「へえ、この人、面白いね」などと思うだけだったが、その相方と会わなくなって十年、最近になって「何も考えていなかった」という事がどういう事なのだろうかと考えるようになった。

 

 

例えば、道端で出会った犬が、こちらをじっと見ている。もしかしたら私が餌かなにかをくれる良い人だと誤解しているのかもしれないし、何やら怪しいやつだと、こちらの正体を見抜いているのかもしれない。といっても犬は言語でそう考えている訳ではないだろうし、うん、実は私は犬になった事がないので、その点はまったくわからないんだが、そうすると言語以外で考えるという事はどういう状態なのだろうかと考え込んでしまうんだ。

 

 

相方が、「何も考えていなかった」という時、その言葉を、何かその場とは関係の無い事を考えていた、つまりこの後何を食べようかなだとか、今晩何を食べようかなだとか、明日の朝は何を食べようかなだとか、その手の事を考えているのだろうなあという程度に捉えていたのだが、もしかしたら完全に言語を放棄している状態があったのではないかと、今は訝しく思っている。

 

 

相方にはその手の迫力が、何かしらあったんだ。例えば一緒に映画を観ていると、こちらが思いも掛けない事を口にした。この場面は、随分前の画面と相似関係にあるというような事を、たどたどしい言葉で喋るんだ。確かにそれは監督の意図したところではあるんだろうが、直接的に意味を離した状態、つまり完全に視覚現象としてそれを把握するなんて事が可能なんだろうか。

 

 

裸の大将こと、山下清画伯は、旅先で目にした情景を一目で把握し、それをそのまま頭の中で持ち帰って絵に仕立てたという。テレビドラマの中の山下画伯は、よく道端に腰掛けてスケッチをしていたが、実際の画伯はそうではなかったらしい。ちなみにテレビドラマの中の画伯は、知らない人に手を差し出しておむすびをねだるが、実際の画伯もそうしていたらしい。私のかつての弟子のお母さんは、ある日自宅に戻ったら変なおじさんが自分の家の前に立ちはだかり、玄関に向かってぐいっと手を差し出したまま睨んでいたそうだ。まだ子供だったそのお母さんは、怖くてしばらく家に入れなかったらしい。その変なおじさんが山下画伯だったという事を後に知ったという。

 

 

山下画伯に限らず、そういう特殊な能力を持った画家は、一般には知性に障害を持つといわれているそれらの画家たちは、多く存在しているという検証記事を以前読んだ事がある。言語というフィルターを通さず、物事を把握するという事はどういう事なのだろうか。

 

もっとも言語といっても、自身の内面を直接的に表現するものと、事物を指し示すものと、おおまかに二つに分類する事ができるんだが、もちろん私が今書いているのは後者の方についてだ。

 

 

私には、言葉を使うたびに自分が何かしら削り取られてゆくという感覚がある。言葉のサイズに自身が削り取られ、押し込まれている気がするんだ。もちろん私にだって無意識は大いにある。多分、私は音楽という現場に於いて、無意識を晒す事で商売をしているんだが、その事を、多分私は知らない。

 

 

ああ、犬の内面を見てみたいなどと、昨日ふと思ったんだが、それは犬を見ていてではない、馬を見てそう思ったんだ。うん、昨日はどんたくでさ、恵比寿のお面を被った老人を乗せた馬とすれ違ったんだ。そういえばその恵比寿様の後ろからついてくる不気味な傘鉾の、その頭の上に小さな軍配が立っていた。坂鉾の上に軍配を立てるような仕来りがあるんだろうか。他の傘鉾はそんな事していないが。もしかして、「傘鉾の上が何だか淋しくないかい?よし、これでも立てとけ」ってなもんでそうしているんじゃあないだろうかね。

 

 

祭りの喧騒から逃れるように地下の公衆便所に入った。あれ、誰か洗面台にしゃもじを置き忘れているぞ。今頃、どこかでにわかのお面を付けた人の良さそうなおじさんが、「あいたこらさ、しゃもじばどこかに置いてきたばい」などと頭を掻いている様子を思い浮かべ、何とも言えない可哀想な気持ちになった。

 

 

                                           

                         2018. 5. 5.