昔、ある若者が少し酔っぱらって「人生には目的なんてないですよねー」という質問をしてきました。
何て答えたかは忘れてしまいましたが、この若者は多分、逆に人生には目的があるのではないだろうか、生きる目標があって欲しいという反抗的な言葉なのではないかと思った事がありました。
さて所で皆さんは人生の目的が明らかにされておられるでしょうか。
人生は苦の娑婆だと言われています。
しかし人間はその苦の娑婆でありながらも幸せを求める生きものなのです。幸せを求める生きものは他にはいないのです。
だとするならば幸せとは何かを鮮明にしなければ人生の生きる意味を明らかには出来ない事になります。
それにはまずは人間とはどのような生きものなのかを押さえておかないと答えが間違ってしまいます。
わたしは人間とは極悪深重煩悩熾盛の凡夫であるとの基本にたって考えるべきであると思います。
人間には多くの幸せがあると言う人がいます。
腹がへっていて握り飯を食べた時に幸せ感、一億円の宝くじが当たった時の幸せ感、富士山の頂上でご来光が出てきたのを見ての幸せ感、東京の都知事になった時の幸せ感、結婚した時の幸せ感、オリンピックで金メダルをとった時の幸福感、一般的には色んな幸せがあります。
しかしまずは人間の欲望の達成からの幸せ感は真の幸せ感ではありません。
何故なのでしょうか欲望からの幸せ感はその時限りで心底からの幸せだと本人が思えないのです。
人間の心の中に住んでいる佛の虫がこの幸せは本物ではないと知らせてくれるからなのです。
人間の世界には妙好人をいう絶対的な幸福者がおられます。
まずはそのような人が人間社会におられるという事を皆が知らなければなりません。
そんな人がこの世におられるはずがないと思っておられる人が殆どではないでしょうか。
わたしは77歳になりました。人生においてそれなりに多くの人との出会いがありました。
母が曹洞宗の寺の娘でわたしは母の実家である寺で生まれました。伯父が僧侶をやっていました。
祖父がその寺の総代を何年にもわたりやっていたようです。
曹洞宗では南無釈迦牟尼仏とお称えするはずなのですが祖父は日ごろ南無阿弥陀仏というお念仏を称えていました。又、嫁いでいった妹のおばあちゃんもいつもお念仏を称えていました。
本家は浄土真宗大谷派の日馬山礼信寺という寺でした。
我が家にはお念仏の信仰心の血が流れ相続されているようです。
妙好人とは毎日が勿体ないほど幸せに生きているような人の事です。
妙好人とは、浄土教の篤信者、特に浄土真宗の在俗の篤信者を指す言葉です。
妙好人とは、仏教に救われて、絶対の幸福になった人のことを言います。
もともとどこに由来があるのかというと、ブッダは『観無量寿経』の結論部分に絶対の幸福になった人のことをこう説かれている所です。人中の分陀利華なり。
分陀利華というのは、白蓮華のことです。
インドでは非常に珍しく、最高にすばらしい花とされています。
仏教を聞いて、苦悩の根元を断ち切られ、絶対の幸福になった人を、白蓮華の花のような人だとほめたたえられています。
たくさんの人がいる中で、聞き難い仏教を聞いて、絶対の幸福になった人を、ブッダは白蓮華にたとえられたのです。
その白蓮華のような人を、中国の善導大師という高僧が、さらにこのように解説されています。
すなわちこれ人中の好人なり。人中の妙好人なり。人中の上々人なり。人中の希有人なり。人中の最勝人なり。仏教を聞いて絶対の幸福になった人は、好きな人、「好人」だ 妙なる好きな人、「妙好人」だ 特にすばらしい人、「上上人」だ 極めてまれな人、「希有人」だ 最もすぐれた人、「最勝人」だ と5通りにほめたたえられたのです。
この2番目が妙好人です。
さらに親鸞聖人は、このように教えられています。
この人を上上人とも、好人とも、妙好人とも、最勝人とも、希有人とも申すなり。この人は正定聚の位に定まれるなりと知るべし。正定聚というのは、必ず浄土へ往って仏に生まれることが定まった人のことです。
これを現代の言葉で絶対の幸福といいますので、このように、絶対の幸福になった人を妙好人といわれるのです。妙好人は数え切れないほどいるはずですが、ほとんどの場合は記録に残らずに忘れられています。
そんな中でも、ごくわずかに、他の人に記録されて伝えられている人がおられます。
何故このような絶対的な幸福者である妙好人についての会館のような施設が日本にはないのであろうか。
無住になった寺でも利用して妙好人にまつわる資料を収集し人類の花園のような施設をつくってもらいたいものです。
世界的な施設、会館になる事間違いなしです。
妙好園と名付ける事にしました。