己を見つめる、とは私ってどうして生まれたのだろうか、と考える事から始まるのではないだろうか。
妻が夕食に牛肉料理を作り、年をとったら肉を食べないと、と言う。
余り食べたくもないが二切れ程食べました。
最後の一切れも食べてしまおうと思いきや、妻がこれは私の分だと、パクリと自分の口に入れました。
わたしは隣にあるブロッコリーを食べる時、ブロッコリーは痛みを感じるのだろうか、牛は屠殺場で殺される時、如何ほどの苦痛や恐ろしさ、悲しみを感じるのでろうか等を考えている時に妻は美味しそうにペロリと牛肉をたいらげたのです。
何と人間とは自分の欲望を考える事もなく生きているのだろうか、とつくづく思ってしまいました。
欲望の中に埋没している時には己を見つめようとは出来なくなってしまい己を見失ってしまうのです。
欲望は生きものの本能とも言えましょう。
煩悩とは、人間の心身の苦しみを生み出す精神の働き、肉体や心の欲望、他者への怒り、仮の実在への執着などです。
本能からの苦しみも入っているようです。
しかしその苦しみは人間の知能の働きで他の生きものとは異なっているのではないでしょうか。泥あればこそ蓮華の花も咲くとも申します。煩悩とはその泥の事なのでしょう。
人は経験豊富な人に魅力を感じます。
人生経験とは、この泥を如何ほど被ってきたか、乗り越えてきたかではないでしょうか。
しかし我に七難八苦を与えたまえ、と幾ら叫んだとしても縁が来なければ味わえないのです。
もしかすると縁とは神様や仏様の領域なのかも知れません。
己を見つめるとは神様や仏様が教えて下さるのではないでしょうか。